« ちきんぢょーぢ | トップページ | ガンガン2010年7月号 鋼の錬金術師第108話「旅路の果て」ネタバレ感想 その12 »

ガンガン2010年7月号 鋼の錬金術師第108話「旅路の果て」ネタバレ感想 その11

レトリックという名の化け物

痛みを伴わない教訓には意義がない
人は何かの犠牲なしに何も得ることなどできないのだから

レトリックという言葉があります。
辞書で引くと、修辞法とか修辞学とか、わからんちんな事が書かれていますが。
ようは、どう文章を書けばカッコイイか、人を魅了するか、そんな語法だと思っておけばいいのではないかと思います。
比喩、体言止め、オノマトペ、多分その技法の名前をあげれば「その手のものか」とおおよその理解は出来るのではないでしょうか。
   
さて。そのレトリックに、こんなものがあります。
二重否定、倒置法、押韻、首尾同語。
まさにこれらを駆使して書かれたのがこの文章です。
 
「痛みを伴わない教訓には意義がない
人は何かの犠牲なしに何も得ることなどできないのだから」
 
二重否定は、否定文を否定することで肯定を強調します。
「ありえないなんてことは、ありえない」などがそうですね。
かなり技巧的な言い回しとなるため、一度頭の中で肯定文に差し替える為、直感的に一瞬でその意味を理解する事が難しくなるのが欠点と言えるかもしれません。
 
wikipediaでは。
「~しないわけにはいかない」
「それを悲しまないものはなかった」
などがあげられています。
  
ところが。二重否定には、肯定の強調以外にも別の用途があります。
否定の緩和。部分的な肯定です。
 
そしてこの文章はおそらく後者に位置するのだと思います。
 
・「痛みを伴わない教訓には意義がない」
痛みを伴う教訓に意義があると言っているが、
これは、痛みを伴わない教訓について論じているのであり、
痛みを伴う教訓に必ず意義がある、とは言っていない。
痛みを伴う教訓にも意義のないものはあるかもしれない。
 
・「人は何かの犠牲なしに何も得ることなどできないのだから」
人は何かを犠牲にすれば何かを得られると言っているが、
これは、何かを犠牲にしなかった場合を論じているのであり、
人は何かを犠牲に必ず何か得るとは言っていない。
人は何かを犠牲にしても、何も得られない事はあるかもしれない。
 
このように、否定×否定が必ずしも肯定にならない場合、文章の意図が漠然としてしまい、本来伝えたかった意図が上手く伝わらない可能性が出てきます。
 
 
倒置法
目的語を文頭に置く事によってそれを強調します。
文章がどこにかかるのか分かりづらい場合など。倒置法なのかそうではないのか、その判断がつきづらく、これもまた直感的な理解が難しい技法と言えるかもしれません。
 
1話冒頭の文章。
痛みを伴わない教訓には意義がない
人は何かの犠牲なしに何も得ることなどできないのだから
(タイトルページ)
 
この「だから」はどこにかかるのでしょう。
  
倒置法ととるなら「痛みを伴わない教訓に意義はない」にかかります。
しかし。
倒置法でないなら、タイトルページを指しているとも取れます。
 
「人は何かの犠牲なしに何も得ることなどできないのだから」、左脚を犠牲にして少年は機械鎧を身にまとう「鋼の錬金術師」となった。
そう取る事も可能なわけです。
 
最終話最後の文章。
痛みを伴わない教訓には意義がない
人は何かの犠牲なしに何も得ることなどできないのだから
しかしそれを乗り越え自分のものにした時、人は何にも代えがたい鋼の心を手に入れるだろう
  
この「だから」はどこにかかるのでしょう。
 
倒置法ととるなら「痛みを伴わない教訓に意義はない」にかかる。これは1話と変わらない。
倒置法でないなら、「しかし~」以降にかかっているとも取れます。
 
人は何かの犠牲なしに何も得ることなどできないのだから。
しかしそれを乗り越え自分のものにした時、人は何にも代えがたい鋼の心を手に入れるだろう
 
順接の「だから」の直後に逆接の「しかし」が来るのは、いくらなんでもおかしいですよね。
となれば、やはりこれは倒置法なのでしょう。 
   
では、最後に倒置法だった場合。
 
人は何かの犠牲なしに何も得ることなどできないのだから
痛みを伴わない教訓には意義がない
 
何のどこらへんが、「だから」にかかっているのか。これまた直感では判断しづらいですね。
「余程、作者はこの文章を読み解いて欲しくないらしい。」
ミステリならそろそろこんな一文が入ってくるところかな(笑)。
 
頑張って読み解いてみましょう。
 
まず、せっかく平文にしたので順番はそのままで、二重否定文を肯定文にしてみます。
A「人は何かの犠牲なしに何も得ることなどできないのだから」
A’「人は何かを犠牲にする事で何かを得る事が出来るのだから」
 
B「痛みを伴わない教訓には意義がない
B’「痛みを伴教訓に意義はある
 
ところが。
倒置法は目的語の強調を意図するものなのですが、どうもしっくりきません。
 
一見、この文章は定義の証明のように見えます。
A’が定石でB’が定義。
A’という世の常識があり、だからB’という定義がなりたつ。
「AだからBだ」「AだからBになる」。文章の流れからしてこうなるのが有り体の形です。
ですが。Bを「定義」と取ろうとすると「である」「だ」「になる」が文末に来ないというのがどうもしっくり来ません。
ニュアンスの問題かもしれませんが。
この、まるで断定を避けるような物言いは、
「定義としてまだ足りていない」
「まだ、確たる証拠が不充分で断定出来ない定義」
と言った状態だからなのかもしれません。
例えば。 
「明日どこかで雨が降る」
「雲は地球の50%を覆っているものだから」
ちょっとトンチ入ってますけど、そんな文章に近いのではないでしょうか?
「A=Bという周知の事実があるのだから、新たなA’=B’という定義も成り立つのだろう」そのくらいの強さ。
強調はしたいが断定は避けたい。
そんな印象を受けました。
さてこの条件を元にもう一度文章を考えてみます。 
   
「人は何かを犠牲にする事で何かを得る事が出来るのだから」「痛みを伴う教訓に」も何かきっと「意義はある」はずだ
 
倒置法に戻しましょう。
痛みを伴わない教訓に意義はないはずだ
人は何かの犠牲なしに何も得ることなどできないのだから
 
いかがでしょうか。
結局ほとんど語尾を変えただけになってしまいましたね。
でもそれだけでもだいぶ分かりやすくなったのではないでしょうか?
    
もう少し文章をゆるくしましょう。
つまり。
パターン1
「人は何かの犠牲なしに何も得ることなどできないのだから。この「痛み」もいつか意義(=価値)のあるものになるはずなんだ」
  
「A=B」ゆえに「A’=B’」
ここまで矛盾点は無かったと思うのですがいかがでしょうか。
先に進んでよろしいですか? よろしいですね。
 
さて。準備は整いました。
実際に鋼の1話に当てはめてみましょう。
コミックスのあのページを頭に思い浮かべながら読んでみてください。
  
「どんな痛み(=犠牲)も無駄にはならない。やがて意義のあるものとして自分に帰ってくる
人は何かの犠牲なしに何も得ることなどできないのだから。」
   
…合いませんよね。
どうやったって無理です。まったく合いません。
なにしろあれは絶望のさ中の文であり、希望なんてまったく見えていない言葉だったのですから。
 
ではやはり、上に書いた二重否定文が問題なのでしょうか。
「A≠B」ゆえに「A’≠B’」。これにあたります。
上のパターン1を部分否定にして書いてみましょう。

ではもう一度、あの1話の絵を思い浮かべて。

パターン2
「人は何かを犠牲にしても、何も得られない場合はある。だから。
どんなに辛い思いをしたとしても、必ずそれが意義(=価値)あるものになる、とは限らないのだろう」
 
これは。
……ある意味正しいですね。
結局エドは、左脚と引き替えにしてもトリシャを生き返らせる事は出来なかったのですから。
これがダブルミーニングの裏の意味で使われているのだとしたら問題無い、というかむしろすごいのですが。
表の意味、ではないですよね。
これを前面に押し出されては、話が先に進みません。
  
パターン3を作成しましょう。
パターン1が、「A=B」ゆえに「A’=B’」と書きました。
それでダメだというのですから。では、こうしてみましょう。

「A=B」ゆえに「B=A」だから、「B’=A’」。

もう一度あの1話の絵を思い浮かべてください。
パターン3です。

「人は何かの犠牲なしに何も得る事など出来ない。
何かを得るためには同等の代価が必要となる。だから。
何かを得るために罪を犯したなら、同等の罰(=痛み)によって、それは購われなければならないのだろう。」
 
どこかでみたことのある文ですね(笑)。
でも。
いかがでしょう。
1話を読んだ時、大なり小なりこんな感じに脳内変換されませんでしたか?

「A=B」は言い替えれば「B=A」だから、「B’=A’」。
本来ならこうするところを、どうも下のようにワンステップ、手数を省略してしまっているようです。

「A=B」(は、言い換えれば「B=A」)だから「B’=A’」。

上のトンチ話を例にしてみるとこんな感じでしょうか。
「地球の50%は上空からでも地上が見える」
言い換えれば「雲は地球の50%を覆っている」
だから「明日はどこかで雨が降る」

それがこう書かれてしまったわけです。
「地球の50%は上空からでも地上が見える」
だから「明日はどこかで雨が降る」
 
確かに間違った事は言っていないかもしれません。
けれど。これを読者に一瞬で理解しろとは、随分と酷な気もします。
すべての要素が、直感で意味を読みとりづらい方向へ、読み取りづらい方向へと向かっているのですから。
 
順当に読んだならパターン1しか思い浮かばないでしょう。
倒置法と二重否定の指す意味に気づいたら、なんとか頑張ってパターン2。
パターン3に気づくには、さらに捻くれた読み方をしなければ到底届かないのではないでしょうか。
   
にも関わらず。
おそらく読者側の認識は一切ブレなかった。
それは、あの強烈な絵があったからではないでしょうか。
あのエドの足の断面が、何より強くこの文章の方向性を提示してくれた。
だから、本来なら作者の意図を読み取れるはずのない文章でありながら、読者はその意図を正確に読み取ることが出来た。
私はそう思っています。
  
さて、次に。 
最終話で使われていたのは、上のパターン1とパターン3のどちらだったでしょう。
まず直感で思い浮かべてみてください。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
思い浮かべましたか? どちらでしたか?  
では。
まずパターン1をあてはめてみましょう。
あの最終話の最後の絵を思い浮かべて…。
どうぞ。
  
「どんな痛み(=犠牲)も無駄にはならない。やがて意義のあるものとして自分に帰ってくる
人は何かの犠牲なしに何も得ることなどできないのだから」
  
合ってるかな? 結構イメージっぽいですよね。
うん。いい感じです。
でもね。違うんです。外れです。これだと後が続かない。
続けて書いてみましょうか。
さらに分かりやすくする為、倒置法も解除し平文に戻してみましょう。
     
人は何かの犠牲なしに何も得ることなどできないのだから
どんな痛み(=犠牲)も無駄にはならない。やがて意義のあるものとして自分に帰ってくる
「しかしそれを乗り越え自分のものにした時、人は何にも代えがたい鋼の心を手に入れるだろう」
  
この通り。
「やがて意義のあるものとして自分に帰ってくる」と、
「それを乗り越え自分のものにした時」が重複してしまっているんです。
なのに接続詞は? 
「しかし」。
逆接の接続詞でありながら前後の文章の意味する処が重複する。
これはあり得ません。
前の文は後ろの文の逆説でないといけません。そうでないと「しかし」が置けない。
 
今度はパターン3を当てはめてみましょう。
 
「人は何かの犠牲なしに何も得る事など出来ない。
何かを得るためには同等の代価が必要となる。だから。
何かを得るために罪を犯したなら、同等の罰(=痛み)によって、それは購われなければならないのだろう。」
「しかしそれを乗り越え自分のものにした時、人は何にも代えがたい鋼の心を手に入れるだろう」
  
この方がしっくり来ます。しっくり来ますよね。 困ったことに。
 
「何かを犠牲にしたのだから何かを得る」
本来この文章はそういった意味でこそあるのに。
あくまでも1話の延長として、最終話もまったく同じ意味
「何かを得たのだから犠牲がついてくる」
として扱っているのです。
 
   
次に進みます。
「それを乗り越え自分のものにした時」の「それ」とは何でしょうか?
 
FAのように「痛み」に差し替えると、「「痛み」を「自分のものにした時」」となってしまいます。痛みは常に自分のものですから。これはちょっとおかしい。
FAスタッフの苦労がしのばれます(笑)。
FAでは「その痛みを乗り越えた時」に改変されてました。
    
ならば「痛みを伴わない教訓」? もとい。
それを言うなら「痛みを伴う教訓」ですね。
でも「自分のものにした時」はいいかもしれませんが。「教訓」とは乗り越えるものなのでしょうか? あまりそぐわないようですね。
   
では「痛みを伴わない教訓には意義がない」?
「「痛みを伴わない教訓には意義がない」を乗り越え自分のものにした時」とはどんな時でしょう?
「「痛みを伴う教訓に意義はある」を乗り越え自分のものにした時」にした処であまり変わりばえしないですね。
  
では「「人は何かの犠牲なしに何も得ることなどできない」を、乗り越え自分のものにした時」。
何か分かるような感じが出てきませんか?
 
パターン3を引っ張り出しましょうか。

「人は何かの犠牲なしに何も得る事など出来ない。
何かを得るためには同等の代価が必要となる。だから。
何かを得るために罪を犯したなら、同等の罰(=痛み)によって、それは購われなければならないのだろう。」
けれど
「人は何かの犠牲なしに何も得る事など出来ない。
何かを得るためには同等の代価が必要となる」。
その法則を受け入れ、乗り越えた時。
 
どうでしょう。これなら意味が通りそうですね。
ただ、どうもしっくり来なくて、元の「乗り越え」「自分のものに」の順序が逆になってしまいました。
  
「乗り越え」るということは、それは目の前に立ちはだかる壁のようなものだったという事。
そこに壁があることを認め「受け入れ(=自分のものにして)」「乗り越え」る。これなら想像がつきます。
   
大切なものを手に入れようとして、逆に大切なものを失ってしまう。等価交換とはそんな法則でもあるのだと受け入れ納得し、じゃあその法則を踏まえた上で自分に何が出来るのかを考える。
そういうことですよね。
ですからこれが、「乗り越え」「受け入れる」の順ではどうにも違和感があります。
   
等価交換という壁を「乗り越え」、等価交換そのものを「自分のものに」するとは? それはどんな状況なのでしょう?
「受け入れる」以外に、この「自分のものに」するをどう捉えればいいのか。
  
私には思いつきませんでした。
答えは見えますか? どうぞみなさんで考えてみてください。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
考えたついた方、いらっしゃいましたか。
私は考えつくまでに、3日かな、4日かな。そのくらいはかかったかと思います。
おかげで、その間に仕上げてしまった下書きをもう一度書き直す憂き目にあっています(笑)。
ただし。
あくまでも「強いてあげれば」というレベルであることをご承知おきください。
    
強いてあげるとするならば。
上で一文省略されているという話をしましたので。
こちらも同じ手を使ってみます。
   
大切なものを手に入れようとして、逆に大切なものを失ってしまう。(等価交換とはそんな法則でもあるのだと受け入れ)じゃあその法則を踏まえた上で自分に何が出来るのかを考え、自分なりの新しい法則を導き出す。
 
いかがでしょうか?
「乗り越え自分のものに」するとは、つまり目の前に立ちはだかる法則すら内包出来る法則を作る。
そんな意味合いにとれば、まあなんとか意味が通るのではないでしょうか?
 
念のため、すでに切り捨てられてしまったパターン1を、引っ張りだして確認しておきましょう。
多少文章の通りをよくする為にいじります。
 
どんな痛み(=犠牲)も無駄にはならない。やがて意義のあるものとして自分に帰ってくるはずだ。
人は何かの犠牲なしに何も得ることなどできない。
それが、世の中の理、等価交換の原則なのだから。
しかし、(等価交換とはそんな法則でもあるのだと受け入れ、)ではその法則を踏まえた上で自分に何が出来るのかを考え、自分なりの新しい法則を導き出す。
 
やはり、繋がっているとは言えませんね。
何かもうしっちゃかめっちゃかと言うべきか。
等価交換の原則は決して悪いものではないと冒頭で言っているにも関わらず、それを悪いもののように言い乗り越えたり自分のものにしたりするのではもう、意味が分かりません。
パターン1は本当に意味のないものなのでしょうか。
   
 
あと一文。もうこれでラストです。
「人は何にも代えがたい鋼の心を手に入れるだろう」
 
押韻
「人は何」かの犠牲なしに~
「人は何」ものにも代えがたい~
頭の文字に韻を置く頭韻が使われています。さらに。
「何」かの犠牲なしに~
「何」も得る事など~
「何」ものにも代えがたい~
このようにまったくの頭ではありませんが、こちらも韻を踏んでいます。
  
別にこれは、余程無理矢理でなければ、文章を分かりづらくするような要素はない、はずなのですが。
  
「人は何かの犠牲なしに何も得ることなどできない」。
けれど、それを乗り越えれば。
「何ものにも代えがたい」鋼の心を得られる。
代え難い=代えるのが難しい=代えられない=交換出来ない=等価交換出来ない=等価交換では手に入らない。
 
つまり、等価交換の法則を乗り越え、新しい法則を見いだした者は、等価交換では手に入らないものを手に入れる。
 
ようやくたどり着きました。
まさにこの「鋼の錬金術師」という物語そのものを語る言葉と言えるでしょう。
荒川先生は、これが言いたかったのかな、と気がついたのは今さっきです(笑)。
100回、1000回とこの文章を読み返し「もう頭の中で反復するのもイヤっ」となるほど読んで読んで読み込んで、やっと私はここにたどり着いたのですが(笑)。
みなさんはいかがでしたか?
   
「何ものにも代えがたい」。
この中に「等」「価」「交」「換」の中の一文字でもいいから入っていれば、もしかしたらもっと早くに気づけたかもしれない、その気持ちは拭えません。
  
もし作者が、「人は何」の韻をふみたいが為に、この言葉を選び、その代わりに分かりやすさを切り捨ててしまったのだとしたら、何とも勿体ない限りです。
  
内容に触れます。 
「代えがたい」。つまり「等価交換の否定である」と先ほど述べました。
     
上の文章、パターン3でもう一度考えてみましょう。
ちょっと文をいじって分かりやすくしてみました。
  
人は何かの犠牲なしに何も得る事など出来ない。
何かを得るためには同等の代価が必要となる。
それが等価交換の原則だ。
ならば、何かを得るために罪を犯したなら、同等の罰(=痛み)によって、それは購わなければならないのだろう。
けれど。
その法則に痛めつけられ、苦しみ、叩きのめされたとしても諦めず。その法則の上で自分に何が出来るかを考え、自分なりの新しい法則を導き出す。
もしそれが出来たなら。
人は等価交換では決して手に入らない、叩かれて熱されて強靱になる、そんな鋼のように鍛えぬかれた強い心を手に入れる事が出来るのだろう。
    
いかがでしょうか。これで完成です。
無茶苦茶長いですね(笑)。元の文章と比べてみましょうか。
 
「痛みを伴わない教訓には意義がない
人は何かの犠牲なしに何も得ることなどできないのだから
しかしそれを乗り越え自分のものにした時 
人は何にも代えがたい鋼の心を手に入れるだろう」
  
誰にでも理解出来るよう、なるべく噛み砕いて書いたのは確かですが。いやはやここまで長さが変わろうとは(苦笑)。
  
最後にもう一度。しつこいようですが、パターン1です。
これにつなげたらどうなるか。見てみましょう。繋ぎを良くするためほんの少しだけいじりました。
 
どんな痛み(=犠牲)も無駄にはならない。やがて意義のあるものとして自分に帰ってくるはずだ。
人は何かの犠牲なしに何も得ることなどできない。
それが、世の中の理、等価交換の原則なのだから。
だからこそ。
その法則に痛めつけられ、苦しみ、叩きのめされたとしても諦めず。その法則の上で自分に何が出来るかを考え、自分なりの新しい法則を導き出す。
もしそれが出来たなら。
人は等価交換では決して手に入らない、叩かれて熱されて強靱になる、そんな鋼のように鍛えぬかれた強い心を手に入れる事が出来るのだろう。
  
さて。いかがでしょうか。
ここまでずっとパターン3としか受け取れない文面でした。
パターン1は完全に否定されてきました。   
それは読んでいただいたすべての方が納得されていたと思います。  
  
けれど、どうでしょうか。
私は「けれど」を「だからこそ」に変えただけです。
 
それだけで、パターン1の「しかし」以降は冒頭部分の詳細な理由となり、その冒頭文だけで、パターン3の文章全てを飲み込んでしまった。
そうは見えませんか?
  
パターン1は、パターン3言うところの「等価交換の法則を乗り越える事」すら、等価交換という法則の中の一端に過ぎないと言っている。
禁忌を犯せば報いがあるのが等価交換なのではなく、辛いことがあってもいつか必ず報われるのが等価交換なのだと。
    
1話の文の説明の際、私はあの絵があったからパターン3の内容が成立した述べました。
   
最終話はどうでしたか?
絵を思い浮かべた時、パターン1の方が合っているように思いませんでしたか?
    
結論です。
最終話のあの絵は、パターン1の冒頭が示す内容に限りなく近いものだった。
もうそこで全ては語り尽くされてしまった。
読者がパターン1の意味に受け取れば、「しかし」で続く以降の文章はまったく意味のわからないものになってしまった。
  
読者がパターン3の意味で受け取るにはそれをフォローしてくれる絵が無かった。
     
先に述べた通り、1話での文章に読者のブレが起きなかったのは、あのエドの絵があったからこそでした。
けれど、今回の文章にそういった絵は無かった。
 
パターン3の内容はエドとアルに固定されているにも関わらず、いろんな人々が描かれていた。
パターン3には、二人が犯した罪のことも、それを乗り越え新しい法則を見いだしたことも描かれていたのに、その過程を伝える為の絵は無く、この難解な文章を導きフォローしてくれるものは何もなかった。
   
ならばパターン1の意味にとり。
描かれた絵の通りに、エドとアルには固定せず。
誰に対してでも等価交換とはそういうものであると、そういった文章に扱っていたなら筋は通っていたはずです。
けれどパターン1の意味を、作者は否定していたのはご覧の通り。
   
パターン1に受け取ろうとしても、逆接詞が邪魔をする。ではパターン2かと捻ってみれば、裏の意味しか出てこない。
ましてや、パターン3にたどり着くの困難だ。
 
これでは、どれも決め手に欠け、文章の矛盾や、絵と文章の不一致に、いい意味ではなく、諸手をあげて降参するしかありません。
そして、このようなちぐはぐな印象が生まれてしまった。
   
もしかしたら作者は、私には想像もつかないパターン4という別の意図で書いていたのかもしれない、その気持ちも未だ拭い切れません。
 
文章に粗があります。
部分否定によって、著者の意図はぼやけ。
順接の「だから」が何にかかっているのか判断が付けづらく。
逆接の「しかし」は本当に作者の意図通りなのか分からない。
さらに、代名詞の「それ」は何をさしているのか直感では難しく。
正直悪文と言っていい。けれど。
   
同じ文章でありながら絵によって、希望とも絶望とも両方に受け取る事が出来るうえ、裏の意味にもとれる、たいそう面白い文章であった事は確かです。
 
本当に勿体無い。
使い方によっては、世界をひっくり返す事だって出来たかもしれないのに。
  
違う。これら全て、いろんな解釈が出来るよう意図的に作られたものだったと、貴方は言うかもしれません。けれど。
 
いいえ。それは断固として私は首を横に振ります。
意図的なダブル、あるいはトリプルミーニングは、まず一読でオーソドックスな一つ目の意味が安易に読みとれてしまうからこそ、二つ目、三つ目の意味の隠れ蓑として最大限に機能するのではないでしょうか。
世界をひっくり返せるパターン1、裏の意味にとれるパターン2、それらを乗り越えてやっと本来の意味であろうパターン3に辿り着けるのでは、トリプルミーニングも本末転倒というしかありません。
    
首尾同語
その名の通り、冒頭にあった文章が最後にもう一度使われる技法。
「モチモチの木」などが有名ですね。
個人的には、「聖戦士ダンバイン」や、水島版や、「ポーの一族」など。
私はこの技法が大好きで、未だに「ダンバイン」の定番アバンもそらで言えます(笑)。
そして、この技法の欠点は……。もうお分かりでしょう。 
  
  
荒川先生は最終話で、この文章にどのような意味を持ち、何を意図して使われたと。貴方はとらえるでしょうか。
どのような意図であの絵にこの文章を載せたと、思われるでしょうか?
   
レトリックは化け物です。
文章を格好よくリズムよく見せる代わりに、その意味を分かりづらくする事が多々あります。

痛みを伴わない教訓に意義はない。
人は何かの犠牲なしに何も得る事など出来ない。
  
それを等価交換というならば。
荒川先生は、レトリックにこだわるあまり、言葉の意図を明確に伝える事を犠牲にしてしまったような、そんな気がしてなりません。
  
長らくのご静聴ありがとうございました。
  
 
 
でも感想はまだ続くよっ。

« ちきんぢょーぢ | トップページ | ガンガン2010年7月号 鋼の錬金術師第108話「旅路の果て」ネタバレ感想 その12 »

コメント

いやはや、りほさんの考察を呼んでいると自分の読み込みの甘さに気付かされますね

レトリック……日本語の技術みたいなもんでしょうか? その辺になると私の手には負えません(笑) 単純な韻や暗喩ならともかく
あの最後の一文は「綺麗にまとめようとしてるな」と思ったくらいでそこまで印象に残ってませんでした。
なるほど、一見言わんとする意味は分かりそうな文章ですが、言葉に起こして説明しようとすると詰まってしまいますね。
最初の二行はりほさんのパターン3の通りに理解していました。一話の時点での兄弟はまだ等価交換の法則に縛られていましたし、多少後ろ向きともいえるこの言葉にも説得力がありましたね。しかし、最終回の兄弟は既に等価交換からの脱却を果たしている。そして一話文章を応用している以上、追加された二行はそれを否定するものである必要があるのですね。この新たな二行は確かに厄介です。私は、最初の二行の意味はそのままに、そこに新たに得るもの、「鋼の心」を手に入れるという最後の一文だけが追加されたのだと思います。ちょっと上手く説明できないのですが、10と10を交換する、それが等価交換ですよね。そして、兄弟が新たな法則として編み出したのが10に11を返す新たな等価交換の法則です。ここで重要なのが、この新しい法則もやはり結局はもとの等価交換の法則の上に根ざしている。つまり何かを得るためには犠牲が伴うことが前提となっているという理解です。犠牲や代価というとネガティヴなイメージになりがちですが、その犠牲は必ずしも痛みである必要はないんじゃないかなーと、人間同士だったら善意でも献身でもなんでもいいですし。ただその対価を痛み、犠牲と限定してしまっているのが私にはちょっと残念だったと思います。そこは変えて欲しかった。
後は「鋼の心」という言葉と文章の繋がりが、無理にタイトルと関連させようとして分かりづらくなってたかなと。でも、短い文章でテーマをまとめないといけないしで、きっと荒川先生も頭を絞ったのでしょう(笑) 浅い読みですが私の考えはこんな感じです。
コメントレスは急がなくていいですよ。ではこれで

>ぽんずさま
コメントのレスは後日必ずっ。

>短い文章でテーマをまとめないといけないし
えっと、ぽんずさまが書かれていたその辺りも実は、記事に書く予定のあるところだったりします(こんなんばっかじゃん・笑)。

>ぽんずさま
まずは、長々しい文章を最後まで読んでいただきありがとうございました、
私もレトリックについてはこの記事の為に即席で勉強したので。
大学などで専門に勉強された方などから見たら、とんでもな間違いがあるかもしれませんよ(笑)。そうではないことを祈りたいところですが。

>ただその対価を痛み、犠牲と限定してしまっているのが私にはちょっと残念だったと思います。そこは変えて欲しかった。
それはもう、しょっぱなの感想で「何故犠牲なんだーっ」と私も騒いでました(笑)。
続 最終話読んだ!(ネタバレあり!)
特に原作は、エドとアル以外のたくさんの人の写真の上に置かれた文章ですから、余計に違和感を感じるんでしょうね。
 

>短い文章でテーマをまとめないといけないしで、きっと荒川先生も頭を絞ったのでしょう(笑) 
そこなんですよーっ。
まさに私も最初はしょうがないよな、この短い文章でそこまで盛り込むのは、と思っていたんですが。
こちらの記事に書いたんですが。
ガンガン2010年7月号 鋼の錬金術師第108話「旅路の果て」ネタバレ感想 その13
http://arisugawa.cocolog-nifty.com/alice/2010/10/2010710813-21ea.html
 
ANAのCMがあまりに秀逸で。これを見てしまったらこの文章量で短いと言ってはいけないな、と。
  
ちょうどこの記事を書いている最中にCMを見て、どうせだからそこまで盛り込もうと思ったんですが。
話の流れから上手く盛り込めず。じゃあ別記事でリベンジっと思っていたら。
まさにぽんずさまがおっしゃられていて。
そこ、そこ私も書きたかったのーーーーっっと叫びたくなりました(笑)。

初めまして。
ずっと、こちらのブログは読まさせて頂いておりました。
私、コミックス派なので、自分の読んでいない部分の記事は、ネタバレ回避のため読まずに封印しておりました。
そして、27巻をさっき読み終えたところですので、こちらのブログも最後まで拝見させて頂いた次第です。

で、話題の最終話ですが、正直、時間に追われていたのか少し表現や絵が荒い部分もあって残念な部分もありましたが、まずまず大団円で、概ねは良かったのじゃないでしょうか。

で、問題の

「痛みを伴わない教訓には意義がない
人は何かの犠牲なしに何も得ることなどできないのだから
しかしそれを乗り越え自分のものにした時、人は何にも代えがたい鋼の心を手に入れるだろう」

これは、現実に即して、こう言い換えても良いですね。

「お金を払わずに買ったつもりになるだけでは意義がない。
人はお金を払わなければ、彼女へのプレゼントも買うことはできないのだから。
しかし、身銭を切って自分のものにした時、人は何にも代えがたい彼女の心を手に入れるだろう」

こう言い換えたら、何かを思い出しません?
これは某クレジットカードのCMですね!
買ったモノとその値段が連呼されて、最後にお金で買えないモノの名前が出てきて「プライスレス」っていうヤツ。

このCMって、鋼の錬金術師の主題テーマと全く同じだと考えられますw

ウィンリィへの電話代・・・520センズ
花屋の買い占め・・・120000センズ
真理の扉・・・腕一本
弟の体・・・錬金能力



鋼の心・・・プライスレス

みたいな感じ?

失礼しました・・・

>ふにゃおさま
はじめまして コメントありがとうございます。

>まずまず大団円で、概ねは良かったのじゃないでしょうか。
 
もうね、言っても詮無い事とは分かっているんですが。
「概ね」という言葉は、荒川弘には似合わないと思っているんですよ。
「まあ、いんじゃない」とか「色々取りこぼしたけど頑張ったし」とか。
それが歯がゆうて歯がゆうて。
 
>「お金を払わずに買ったつもりになるだけでは意義がない。
>人はお金を払わなければ、彼女へのプレゼントも買うことはできないのだから。
>しかし、身銭を切って自分のものにした時、人は何にも代えがたい彼女の心を手に入れるだろう」

わはは、「身銭を切って」てのが涙ぐましいなぁ。
それならこんなんどうですか?
「懐の痛みを伴わないラブコールには意義がない
人は給料三か月分の代価なしに嫁を得ることなどできないのだから
しかしそれを乗り越え自分のものにした時、人は何にも代えがたい彼女との生活を手に入れるだろう」
…なんか指輪にホイホイ釣られた女みたいになってしまった(笑)。
おそまつっ。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« ちきんぢょーぢ | トップページ | ガンガン2010年7月号 鋼の錬金術師第108話「旅路の果て」ネタバレ感想 その12 »