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ガンガン2010年7月号 鋼の錬金術師第108話「旅路の果て」ネタバレ感想 その14

「誰もあきらめろとは言わなかったじゃないか」
あまりこの言葉がすきじゃない。
文頭に、ほんの3文字足してみる。
「だって誰もあきらめろとは言わなかったじゃないか」
これだけで言い訳に早変わりだ。
    
まったくの他人なら逆に「あきらめろ」なんて言わない。
生ぬるーい目や、イタイ子を見るような目できっとこう言う。
「まぁ頑張ってみれば?」
決して「あきらめろ」なんて言わない。
言葉の責任をとりたくいもの。
無茶だろうが無謀だろうがどうでもいい。
あきらめないで痛い目をみようが関係ない。
だって自分には関係ないから。
 
逆にウィンリィみたいな親身に考える身内の存在こそ、元の身体に戻って欲しいけど、それで辛い思いや大怪我を負うような事も嫌だからと。「あきらめろ」とも「あきらめて欲しくない」とも言えなくなってしまう。
 
そんなもんじゃないんだろうか?
「誰もあきらめろとは言わない」。それが、本来の当たり前の図式なんだと思ってる。
そういう意味でも、私はこの言葉があまり適切だとは思っていない。
 
 
次に。
そもそも二人は何があろうとあきらめなかったはず。という私の感想に、「あきらめたと思う」というご意見をいただいた。
うん。わかる。確かにあそこでグレイシアが「元の体に戻るなんて諦めろ」と言ったらね。確かに自分の本意じゃなくとも受け入れて諦めざるを得なかったと思う。
私にとって問題はそこなんだ。
 
「もういやだ、無理だ、辛い、諦める」なんて。一度でもエドは言った事があったか?
全ては外部的要因だ。
賢者の石は人の魂だから。自分達のせいで人が死んだから。
  
二人はあきらめたくてあきらめようとしたわけじゃない。
あきらめたくなくても、あきらめなければいけない事態に陥っただけだ。
    
決して自発的に「面倒くさいもうやーめたっ」と思ってあきらめようとしたわけじゃない。
 
もし。エド達が。
誰にも頼らず、誰にも支えられず。
誰も知らないままたった二人だけで元の身体に戻る方法を探していたなら、人に恨まれようが、罵られようが、唾棄されようが、決してへこたれず、あきらめず旅を続けたと思う。
 
二人を変えたのは人との出会いだ。
ロイが光明を与え、ピナコとウィンリィが手を貸した。炭坑の町やタッカーやドミニクを前に自分の驕りを知り、少佐に情を、ロスとブロッシュには大人に頼ることを、ヒューズやイズミには家族の愛情を。
いろんな人に出会い、学んだ事で、逆に二人の決意は弱くなった。
 
自分達のせいでまた誰かが殺されるような事は嫌だ。
     
人に恨まれようが、罵られようが、唾棄されようが、あきらめないと。
自分達だけが大切。自分達以外どうなろうと構いやしない、と。
そんな風に思える子供ではもういられなくなってしまった。
他人と関わったせいで。
    
全ては。エド達が自分達以外の「人」というものに関わった事ではじめて、「あきらめなければならない事態」という要素は発生したんだ。
 
けれど。その上で誰もがGOサインを出してくれたんだ。
関わった「人」達がエド達の「あきらめたくない気持ちを優先させてくれた」。
二人に関わることで迷惑がかかることを承知でそれを許した。
「あきらめないでいい」と。
だから。あたしは「あきらめろといわなかった」という言葉に違和感を覚える。
 
グレイシアは「あきらめろと言わなかった」んじゃない。「あきらめなくていいと言ってくれた」んだ。
 
 
エドがアルを取り戻す方法を思いついたタイミングは、明確化されていないこと。
つまり、薄々とその方法には気づいていた。けれど本当にそれが通るか分からずすぐに覚悟が決められなかった。
そういうことなんじゃないだろうか?
だから。   
いつだってみんなが「あきらめないでいいだよ」と背中を押してくれたから。
自分に被害が及ぶかもしれなくても「大丈夫、あきらめなてくもいいんだよ」と言ってくれた。
それに気づいたから。
だから今回は、エドがそれを返す番なんだと覚悟を決めた。
自分に被害が及ぶであろうことを含めて、アルに「大丈夫、あきらめなくてもいいんだよ」と。
  
こう考えると話の流れがすっきりするし、しっくりくる。
何より、「いらないものとアルを等価交換」が解消されるし(笑)
   
だから。
だから思う。
エドは何故こう言わなかったんだろう。
「みんなあきらめるなと言ってくれた」。
あるいは。
「みんなあきらめろと言わないでくれた」。
自分たちの為に「してくれた」のだと、何故エドには感謝の念が言葉に出て来なかったのだろう。
 
たったそれだけで、この台詞だけが、どうにもストーリーの中から浮いている気がしてならない。
 
私の読み方が穿っている可能性は高い。
けれどこう読めば、(私にとって)こんなにもすっきり通る話なのになぁ。
 
私が傾倒している作者の小説にこんな言葉がある。
「もしかすると私のようなおかしな読み方も許そうとしたのかもしれませんよ。作者が許さなくても、作品が許している」
   
 
 
補足
FAは逆に、この台詞をカットしたからこそ、方法を思いつた=行動に移すタイミングになっている。
偶然なのか論理的思考なのか、理屈はきちんと通っていたりする。

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