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ガンガン2010年7月号 鋼の錬金術師第108話「旅路の果て」ネタバレ感想 その15

すでにタイトルを「ガンガン」に固定する意味がなくなってしまったよ(笑)。
これが最後。次回は総括でガンガンの感想は〆。多分(結局もう一個増えたっ!)。
そう思って書き始めたせいか、語る内容を入れ込み過ぎてちょっとあちらこちらに話が飛んでいますね。
言いたいことはひとつなんだけどな。
ではいきます。 
 
 
対話の必要性、その漫画とアニメの差異
    
痛みを伴わない教訓に意義はない。
それが等価交換であり、それを乗り越えることで人は強くなれる。
世界がそんなふうに出来ていると言うのなら。
その機会は万人に与えられなければならない。
    
自分の行動が人を傷つける事を知り、悔い改め乗り越える。それを繰り返しエド達は強くなっていった。
いつだってそうやって犯してきた罪は許されてきた。
だけど。
「フラスコの中の小人」にその機会は許されなかった。
   
他の記事の繰り返しになるが。
罪があるのは「フラスコの中の小人」だけじゃない。それを生み出した人間にだってあったはずだ。
「お父様の罪は、対話をしなかった事」?
ご冗談を。欲しがるばかりでその対話する暇すら与えなかったのは誰? そこに罪はなかったのか? 
ホーエンハイム、ホーエンハイムの主人、そしてクセルクセス王。彼らは何故その罪を咎められない?
  
だからFAでホーエンハイムが「そうだよな フラスコの中の小人、ホムンクルス。おまえは俺の血から生まれたんだ」と言った事に私は救われた気がしたんだ。 
  
荒川鋼のホーエンハイムはどこまでも「フラスコの中の小人」を悪と見なし切り捨て、「53万6329人全員との対話を終えている!」と朗々と語った。
「対話の必要性」が暗に民主性を説いてるであろう事は百も承知。でも。
  
これってそんなにドえらく大事なシーンなのか?
だって、おかしいじゃないか。
確かに猛り狂う魂をなだめるのは大変だっただろう。
だけど。だったら何故「フラスコの中の小人」にも同じ事がしてやれない?
何故ホーエンハイムは彼の話を聞いてやれなかったんだ?
ホーエンハイムの話を遮って攻撃を仕掛けたのは確かに彼の方だけど。
それさえ宥めて尚対話を選ぶのが民主性であり、そうであってはじめて「対話」の大切さを語れるってものじゃないのか?
「対話することが大切なんです。だけど相手が聞く耳持たないなら武力行使は許可します」ではどうにもね。
 
それならば。FA63話の「私はどうすれば良かったのだ?」の台詞の方がよっぽど有意義に感じられる。
「フラスコの中の小人」が初めて他人に意見を求めたこと。
たとえそれに答えられる人がいなくとも。
もう遅すぎた芽生えであったとしても。
あれは「フラスコの中の小人」が最期に示した対話だった。
 
 
かつて語られた人の定義
 
初期のエドは、スライサーをアルと同じだから人間だと言い放ち「人殺しは勘弁しろ」と言った。
エドは自分が「人間」と定義した者は殺せない。ここでそれを明文化したはずだった。
 
身体に張りついた魂の声にエンヴィーを殺せなかったエド。
自分達が錬成した化物すら人間として扱った。
プライドすら殺さなかった。
 
エドにとって「人体錬成」によって作られたものは「人間」の定義に当てはまるということだ。
逆説的に言えば、エドが殺したあるいは殺しを容認した者達は、エドにとって人間の定義から外れているという理屈になる。
 
では。
エドが同じホムンクルスでありながら「フラスコの中の小人」を人間の定義にあらずとした理由は何だろう?
「魂乗せ」た人形を「アルフォンスみたい」としながら人間ではないと定義づけた理由は何なんだろう?
 
人形をロイが殺したあのシーン。エドの反応にギャグ色を入れてしまった辺りからもう「割り切る」とか「割り切れない」とかエドの中にあったはずの葛藤が無造作に扱われた。
「生まれた場所へ帰れ」と。「フラスコの中の小人」に事実上の死を与える事に躊躇しないエドを描くと決めた、その作者の信念はいったいどこにあるのだろう。
  
インタビューでも必要性を強調していた「対話」も最後には頓挫し、勧善懲悪の線が引かれた。
人になら与えられた慈悲も、エドが人でないと定義したものには与えない。
人でないものであっても「人間」と定義し殺せなかったはずのエドの信念は、いったいどこへ行ってしまったのだろう。
  
エドの行動は一貫性を欠き、その信念がどこにあるのか分からなくなった。
  
 
言葉の信憑性
  
結局エドのように人間の定義が広すぎる人間など存在しやしないということなんだろうか。
所詮自己矛盾の出る思想だと言いたいのか。
作者が言いたかったのはそこなのか? 違うだろう?
それは分かる。
でもそれは、話の流れからみてそんな物語を構成して「いない」からそう分かるのであって、作者自身が物語上でそれを「語った」からではない。
きっちり否定して欲しかった。そして理由を明示して欲しかった。
   
水島監督の言葉にもあった。本当に伝えたい大切な事は言葉にしなければだめなんだ。
特に鋼ではウィンリィに「口で言わなきゃ伝わらない事もありますよね」と言わせているのだから。作品がそれを裏切ってしまっては台詞の信憑性を薄れさせるだけなのに。
  
キャラクターの言っている事と、作品が語っている事とに矛盾が生じ、誰あろう作者が、キャラクターの語る言葉を絵空事にしていないだろうか。
  
 
行間を読ませるセンスと書く事で伝える無骨さ
 
昔の「鋼の錬金術師」の良さは、読者の想像の余地を残した部分にさえ、その余地は読者ごとにブレさせない一本道の思考へと読者を導ける技巧的手腕にあった。
描かれたシーン、語られる言葉についてはもちろん、描かれないシーン、語られない言葉の意味まですべてコントロールし提供出来る事がこの作者の強みだと、ずっと思っていた。
もちろん「こんな事があったのかもしれない、あんな事があったのかもしれない」、その振り幅はある程度持たせることはしていた。
けれど、決定的な所で、その先に見えるものが希望なのか絶望なのか、怒っているのか笑っているのか、そこを見誤らせるようなそんな誤誘導は絶対させない。
それが荒川弘だと信じていた。
  
だから多少の言葉不足があろうが内容の理解に困った事などなかった。
しかし何故か後半に行くに従いその特化していた技術力は消え、あるいは行使しなくなった。
だからこそ。
ならば描いて欲しかったんだ。 
  
例えば人形をロイが殺すシーンや、お父様をエドが殺すシーンに。
エドが自分の信念を無理矢理捻曲げた苦渋の選択だったのか。
すでにエドはそんな信念などもうどうでも良かったのか。
信念も理性もふっ飛ぶくらい感情が高ぶっていたのか。
何だっていい。
納得させるワンエピソードを一つ描いて欲しかっただけなんだ。
作者は昔のエドの信念など忘れてしまったんじゃないのか? そんな事を思わせないでくれる何かを。
        
「人殺しは勘弁しろ」、スライサー兄弟に言った台詞を回想させたらどうなっただろう?
ロイの復讐をみんなで止めたあの台詞達がエドの頭によみがえったらどうなっていただろう。       
そのうえでエドがどう行動を取るのかが知りたかった。   
 
 
過去を切り離す
     
「ここで回想シーンが入っていれば」。
他の記事でも同じような事を言った。
    
結局そう見えるって事は、過去をふまえて物語が語られていないって事なんだ。
過去の行動や経験の積み重ねの結果として最終回が成立しているわけでもなければ、過去の行動や経験に裏切られるあるいは意図的に主人公が裏切るカタルシスがあるわけでもない。
        
ただの駒のように過去があり、ただの駒のように未来がある。
積み重ねるでも、そこにホットラインを引くでもない。
だから過去に言っていた事やっていた事とに矛盾がでた。
      
人の定義が広すぎて敵すら殺せなかったエド。
なのに、人形を焼き殺す仲間の攻撃におののくことなく、「フラスコの中の小人」も殺してしまえたエド。
   
「誰もあきらめろと言わな「いでくれた」」とすら言えないエドの、未だ人に守られているという自覚の無さ。
こちらとしては、今まで守られていたからこそ今度は守りたいのだと、今は元の身体に戻る事を棚上げしてでも、お父様との戦いに挑んだのだと思っていたのだけどね。
    
今まで語ってきた物語と、今作者の語る物語とにブレがでた。
もう彼らは成長していると思っていたのに、「何を今更?」そう言いたくなる台詞の数々。
もし「実は途中から「荒川弘」は交代していた」なんて事実が発覚したとしても、私は「ああ、やっぱりね」と思ってしまうんだろうな。
  
 
矛盾の上に重ねた矛盾
     
友人曰く「鋼の最終回もモヤモヤするけど、00の劇場版もモヤモヤする。でも00はまた見たいと思わせる。同じモヤモヤなのに何が違うか分からない」のだそうだ。
00の劇場版は見ていないけど、何となく分かる気がする。
もしも、水島監督の作風がシャンバラの頃から変わっていないなら。おそらく答えはこうだろう。
そのモヤモヤは計算され意図的に作られたもの。
それがどことは分からずとも、自分が何か読み落としている気がする事にモヤモヤする。
思わせぶりに張られた伏線はない。それでも何かその言葉にそのシーンにも意味があるんじゃないだろうかと。 
そういう気持ちにさせるからモヤモヤするし、また見直したいと思わせる。
 
対して鋼のモヤモヤは意図的なものではない。
キャラクターの信念の齟齬
キャラクターの台詞の信憑性欠如
過去の物語と、今の物語とのブレ
言ってること(=キャラクター)とやってること(=作品の構成・世界観)の矛盾
これらをそうと認識せずとも、肯定なの否定なのか齟齬や矛盾が空回りし、結局何が言いたかったのか、過去の物語を覚えていれば覚えているほど、気に入っていれば気に入っているほど、ストンと胸の真ん中に落ちて来ない。
だからきっとモヤモヤする。
 

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コメント

一応これで最後ですか(なんかまだ16がありますけど)。りほさんの記事は色々考えるきっかけになり、鋼の全体評価を決定付ける参考になりました。ありがとうございます。

エドは「殺さない覚悟」を信念として持ち、プライド戦では命を削ってまでセリムを生かした。プライド戦は、エドの信念が明快な形で描かれてるからすごく好きなんですよ。(見開きのシーンなんて、まさに「信念を貫く」図じゃないですか?)
最終戦では確かにその信念が曖昧になってますね。
ただ、無自覚かもしれないけど荒川先生も分かっていたんだと思います。お父様にトドメを刺したシーン。あそこでのエドの台詞は「クセルクセスの人たちを解放しろ」「生まれた所へ帰るんだ」と意図的に「殺す」という表現を避けてるように見えますね。予防線のようなものだと思います。エドはクセルクセスの人たちを解放してあげて、お父様は生まれた場所に帰っただけなんだよと。でも二十二巻でホーエンハイムが言うように容れ物が壊れたらお父様を待つのは死なんですよね。作中でそれを明言しちゃってるから、やはりこの点は矛盾と言えるでしょう。

ところで、ユリイカはもう読みました?
三宅先生(イムリは購読してます)との対談は個人的にすごく意外な気がしたので、なかなか面白かったです。藤田先生といい、ゆうきまさみ先生といい、私が好きな漫画家と対談してることが多いのは、傾向が似てるってことなのかなあ。
グラトニーとの心が通った可能性は盲点でした。

他の記事も、けっこうなボリュームでしかも難しいので、まだ理解しきれてないものもあるんですけど興味深かったです。
専門知識があるがゆえの切り口で色々な批評がされてるので、また新たな見方が出てきたかなと。
個人的に、『貨幣』から見た鋼の論考は目からウロコでした。

>ぽんずさま
こちらこそ、毎度長ったらしい記事を読んでいただき、いつも真摯なコメントの数々、本当にありがとうございました。楽しかったです。
とりあえず、その16で最終話の感想は終了です。その1は6月ですものね。足かけ半年って一体(笑)
このあとは、描き下ろしの感想と、原画集の感想と入江監督初監督作のクラウについて、ユリイカの感想、それと、前回コメントレスに書いたFAのエドについて書く予定です。予定は未定決定にあらずですが。
それがすんだらMAD作りっ!
  
>無自覚かもしれないけど
アニメ制作時に子供に「殺す」という台詞を言わせない事をお願いしたほどの事を、エド自身が犯す事になるのだからこそ、荒川先生にはそこは腹を据えてそんなエドをしっかり見届ける覚悟で描いて欲しかったかなぁ。
無自覚ならそんな事でどうするっと思うし。自覚したうえで避けて通ったならそれでも荒川弘かって思うんだろうなぁ(笑)。
 
「ユリイカ」は現在読み途中です。
三宅さんは存じ上げないので対談の内容がまったくチンプンカンプンで困りました。でもこれと同じ思いを数カ月前に荒川先生の事を知らない藤田さんのファンは味わったんだろうなぁと思うと、今更ながらごめんなさいって気持ちでいっぱいになりましたよ(笑)。
パレスチナとか、シニフィアンとか、ナチスとか。
今の処その辺りが気に入ってます。
自分の得意分野に上手く話を落とし込んでくるのが面白いですよね。
ただ象徴学の方の話が…。ヘルメスじゃなくてフラメルなんですけど…というのが読者の大半の突っ込み処ですよね、きっと(笑)。せっかくの象徴学の専門家なのに、グノーシス主義とか昔鋼がらみで調べただけに興味深い話題なのに、フラメルの話を知る機会を逸してしまったのが残念。
これからゆっくり読みまーす。

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