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ユリイカ 2010年12月号 感想5

超人的ユートピアへの抵抗 大田俊寛

この方は絶対FA見てたはずっ。
だって。
 
ある意味でホムンクルスとは、「自由になりたい」というホーエンハイムの無意識的欲望から生まれたものと見ることができるかもしれない。
 
これ、荒川先生が描いてくれなかった事だもの。FAで描いてくれてすごく嬉しかったとこだもん。
マンガも水島版もシャンバラもFAも全部チェックしてるってこと? だったら嬉しいなぁ。
 
 
 
さて。
物語の構造について述べられた3点。
 
1、社会にうまく馴染むことが出来ず、疎外感を抱えた主人公が登場する。そして主人公は、その疎外感を解消するために、何らかの「能力」を求める。
2、その過程で主人公は、同じ「能力」の獲得を目指している組織的勢力に出会う。その勢力は、「能力」を完全にわがものとすることによって、世界の支配を目論んでいる。
3、主人公は次第に、そうした組織が求めるユートピア的世界に違和感を抱くようになる。そして主人公は、組織と同種の「能力」を使うことによって、彼らに対抗する。

 
すでにうろ覚えの作品が多いのだけど。
まず「ファーストガンダム」。本当にこれに則していたっけ。

1、アムロは疎外感を解消する為に能力を求めたわけじゃない
2、シャアは「組織的」な「勢力」じゃない。たんなるスタンドプレイだし。
3、よって「組織」がユートピア描いていたわけじゃない ニュータイプのユートピアは単なるシャアの妄想
 
だよなぁ。
 
全部挙げてると大変なので記憶にある範囲で他の作品も。
「ナディア」は見てないのでパス。
「エヴァ」はテレビ版しか見てないけど。別に敵対していたものたちはシンジと同じ力を獲得しようとしていたわけじゃなかったはず。
「アキラ」は力を手にしたのは主人公じゃない。疎外感を解消する為に鉄雄が「能力」を求めたわけでもない。「次第に」違和感を抱くようになったわけでもない。
「ハルヒ」も疎外感を解消するために「能力」を求めていない。組織(?)よりもハルヒの方がユートピアを求めていたし。敵(?)方は別にハルヒのような能力の獲得を目指していたわけでもない。
  
結局、どれにでも合うような定義を立てようとして、完全にマッチングしている作品て無いんじゃないのか?
見ていない作品もあるし、はっきりしたことは言えないのだけど。どうだろ?
 
そして鋼はどうだろう。
1、「社会に馴染めず疎外感抱えた主人公」、そうでしたけ?
2、「同じ「能力」の獲得を目指している」は違うけど、「完全にわがものとする」という部分はあり。
3、「主人公は次第に」はズレてるけど、「組織と同種の「能力」を使うことによって、彼らに対抗する」はあり。
 
これまたまったく同じとは言えないけれど、所詮どの「カルト」的な人気作品に対しても多かれ少なかれ帯に短し襷に長しの定義なのだから、合致している方だというべきなんだろうか?
 
でも、この程度のズレを許容していいのであれば、もしかしたら「「カルト」的な人気」とやらががなくとも定義に合ってる作品は存在しそうだよな。
ラムネ&40とか、ウテナも入るか? 十二国のアニメオリジナルの杉本さんだってある程度合致してしまうんじゃないのか?
 
例えばこれが「社会にうまく馴染むことが出来ない人物がいる」「前述の人物は主人公も該当する」「社会に疎外感を抱えている人物がいる」あと「母胎回帰」「原父殺害」とかまで詳細に分けて。カルト的作品は、該当項目がいくつ以上ある。なーんて形にしてあればまだ推し量る事も出来たのだけど。
ただ、上記の定義にあっているから鋼は「カルト」的人気の作品と結論づけるには無理があるように思う。
 
 
アメストリスとドイツの比較は面白かった。
シャンバラの影響もあると思うけれど読者の中でもそれを意識した人は多いと思う。
神人思想、民族粛清、人体実験、総統独裁。こちらは確かにどれもが合致する、確かに。
 
んでもそこではなくて。
『永遠なるヒトラー』からの引用、「人間とは生成途上の神である」とする、神人思想ってのがちょっと面白い。
ここが、鋼とは違う。鋼の場合「人間とは」にあたらなかった。人であらざるものが神になろうとした。
だからこそ、鋼という物語があり、エドというキャラクターが成立したんだ。

フラスコの中の小人が、人間の形になったり、目ん玉お化けだったり、巨大化したり。
何にでもなれたからこそ、自分は神にだってなれる。そう思った。
自分は神になれると思うからこそ、民族粛清、人体実験、総統独裁、何でも出来た。
「神的な全能状態が実は自閉的な無能状態と等価であること」なんて言葉で言われてもチンプンカンプンなのだけど。
それは、万能薬は結局どの症状にも効かないっ、て事。
 
フラスコの中の小人の根っこにあるもの。
思想? 器? 知性? それらが神に及ぶようなものでなければ。
「あれにもこれにもなれる、だから神にもなれる」といくつものカテゴリーを跳躍してみせたところで、それは外面が変わるだけで中はすかすかなまま。根本的な処で何も変わっちゃいない。
いつまでも奴隷23号の思念「自由になりたい 自由になるための知識が欲しい」。そこに引きづられているだけの無知な存在でしかない。
 
けれど、エドは2巻ですでにそれを否定している。
「オレ達は悪魔でもましてや神でもない 人間なんだよ。たった一人の女の子さえ助けてやれない ちっぽけな人間だ」。それでもエドには神になって「たった一人の女の子」を助けてやろうという発想はなかった。
自分は人間でしかない、エドの発想はそこからはじまりそこから一歩も外に出ようとはしなかった。
人間の力で何が出来るか、いつだってエドの発想はそこにあった。
エドにとって人間の定義は広い。
鎧の姿に魂を固定していようが、合成獣だろうが、人体錬成の無残な結果だろうが、エドにとってかれらは人間なんだ。
エドにとっては、「人間」というただひとつのカテゴリーだけでもう膨大なキャパシティーを持っていた。
あれも人間、これも人間と、そう定義立てすることで、(自分のではなく)人間の可能性を無意識に広げていったから、神などになる必要などなかった。
 
なにせ、「真理=神」だというのなら、エドはそれを「ぶっとばす」つもりでいたのだから。エドが神になろうと思うはずがない(笑)。
  
人が神になるんじゃない。人のまま神の隣りに立とうとする事が有用なのかもしれない。
  

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