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ユリイカ 2010年12月号 感想8

ウロボロスの彼方へ 伊藤博明

ヘルメス=メルクリウス……? いや、フラメルなんですけど。

象徴学ってことは、この手のシンボルが専門のはずだよなぁ。
しょっぱなから違ってるって、何事????
フラメルについて書かれてる資料って少ないから、折角の機会に専門家の知識を是非聞きたかったんだけどなぁ。残念だ。
   
そんなわけで、あれこれと出てくる単語を調べているうちに、感想というより、この論考を元にした考察になっちまいましたので、以下ご容赦を。
  
  
まずはフラメルについて。
ニコラ・フラメルと「象形寓意の書」予型論的解釈 参考)
   
フラメルは1300年代の人物だ。
賢者の石を作ることに成功した人物として知られているが、彼が錬金術師として知られるようになったのは、彼の死後2世紀が過ぎた1612年、代表的著書「象形寓意の書」が世に出てからである。
ヘルメス哲学の研究者、アルノー・ド・ラ・シュヴァルリーの論集にこの書が入っていたのだが。このアルノーこそが、この書の本当の著者なのではないかと言われている。
  
フラメルの十字架の下には硫黄と酸が描かれたものもあり、また賢者の石を生成したとされるフラメルの描いた紋章であることから、賢者の石の生成を表しているというのが定説だけど。
著者が並べた図を見れば一目瞭然。
フラメルの十字架は「青銅の蛇」そのものを描いているように見える。
蛇は「青銅の蛇」の逸話から「不死」や「治癒」を、脱皮する事から「復活」を、またイエスが十字架にかけられた事への予型として「贖罪」を意味しているとされる。
 
「賢者の石」と「復活」と「贖罪」。エドとアルにうってつけのシンボルだったのだろう(イズミについていえば賢者の石が余計になるけど)。
 
だがしかし。
「象形寓意の書」にまさにこの「青銅の蛇」はある。
ならばこの紋章もまた錬金術師フラメルが書いたものではない。
その可能性があるんじゃないのか?
そんなことを思ったのがきっかけ。
 
 
さて。ここでまた用語の説明。以下はいろんな資料を抜粋して繋ぎあわせてます。
ヘルメス哲学
天地創造とヘルメス哲学 OKULO 参考)
紀元前3世紀から紀元後3世紀までにエジプトで書かれたとされるヘルメス文書を起原とする学問である。基本的な発想は新プラトン主義の「万物は一者より流出された」という流出論の流れを汲んでいる。
例えばヘルメス哲学の実践者であった錬金術師たちは万物は本質的に同質で、神より流出した第一動因たる「世界霊魂」によって存在しているのだと説いていた。
(略)
ここで錬金術の工程がどのようにして行われるかを記そう。
以下の文章はガレス・ロバーツの『錬金術大全』から抜粋したものである。
(a)分解あるいは浄化
(b)・・・「身体」と「精神」とのあいだあるいは「固定性」のものと「揮発性」のものとのあいだの交替。
(c)さまざまな金属を銀に変質させるであろう白エリクシルの製造
(d)さまざまな金属を金に変質させるであろう赤エリクシルの製造
(e)赤エリクシルの効能の増大
(f)投入あるいは変質
(略)
赤エリクシルとは太陽を創造する形相のことをさし(e)とは太陽が最高天上界より光を大量に受けることを象徴するのであろう。こうして錬金術師は太陽の効能によって霊薬たる形相を我が質料に齎そうと考えたのであろう。
(略)
錬金術師はこう言う「地球は最大の蒸溜器である」と「アダムは最初の錬金術師である」と。だからこそ錬金術の実験器具には常に完全な球形が要求される。それら球形ガラス器具はあくまでも地球を模したものなのだろう。また「錬金術は自然を模したものだ」とも言う。むしろそれは神の所行を模したものなのではないだろうか?。神が地球を器具として行った天地創造と云う名の実験を錬金術師は自前の蒸溜器で行うのだ。
  
グノーシス主義
グノーシス主義 wikipedia
1世紀に生まれ、3世紀から4世紀にかけて地中海世界で勢力を持った古代の宗教・思想の一つである。
普通名詞としてのグノーシスは古代ギリシア語で認識・知識を意味する言葉であり、グノーシス主義は自己の本質と真の神についての認識に到達することを求める思想傾向を有する。
ルネサンスの時代には、新プラトン主義と『ヘルメス文書』がヨーロッパで流行した。今日では『ヘルメス文書』に含まれるいくつかの著作はグノーシス主義のものであったことが明らかにされている。
 
新プラトン主義(アンモニウス・サッカスとプロティノス)
新プラトン主義 オカルトの部屋 参照)
イデア界にも様々な階層がある。それは存在や思惟すらも超えた所にある原理でなければならない。これこそが「一者(ト・ヘン)」であり、様々な物に分化する前の統一体でもある。あらゆる規定や法則に縛られない根本原理である。
この「一者」から、世界は多様化して生じた。
「一者」が世界を創造したわけではない。そもそも「一者」は完璧であるから、わざわざ新たに世界を創る必要性が無い。
では、この完全なる「一者」と、不完全な現象界、物質界とは、どのような関係があるのであろうか?
それの答えが「流出説」である。

「一者」は無限である。「一者」を限定するものは存在しない。だからこそ、「一者」は溢れ、流出するのである。
 さらに「一者」は完全であり無限の力を持っているので、尽きることなく、永遠に流出を続けることができる。
 「一者」から流出した物は、遠ざかるにしたがって、次第に完全さを失ってゆく。結局、流出した世界はオリジナルの「一者」より、どうしても粗悪にならざるを得ないのである。
 我々の住む現象界、物質界が不完全なのはそのためである。
   
 
以上説明終了っ。
   
グノーシス、エメラルド板、ヘルメス・トリスメギストス。
『鋼』にはまったばかりの頃、誰しも一度は「錬金術」や「賢者の石」とか、そんな言葉を紐解くためにググってみたりしたんじゃないかな。
「万有は一である」なんて言葉が出てきて「ここから、「一は全、全は一」の考えが出てきたのか」なんてワクワクした。
意味する処なんてよく理解出来ないまま「万有は一である」は「一は全、全は一」の同義語なのだと思っていた。
 
けれど入江哲朗氏の論考を読み実在論について多少なりとも見通せる知識でもって伊藤博明氏の論考を読み、新プラトン論を調べるとこれまた多少なりと見えてくるものがある。
  
上記のリンク先のヘルメス哲学の説明には、こんな風にも書かれていた。
  
それは、泉と川の関係に例えられた。泉は、水を溢れ出させ流出させ、川をつくる。この泉は他に源を持たないがゆえに、川のように自らを使い果たすことはなく、その状態をを保ちながら存在し続ける。
「一者」は太陽にも例えられた。太陽は熱と光を放ち続ける無限の存在だ。しかし、太陽から放たれた光は、太陽から遠ざかるにしたがって、その明るさを弱める。
「一者」から流出した物は、遠ざかるにしたがって、次第に完全さを失ってゆく。結局、流出した世界はオリジナルの「一者」より、どうしても粗悪にならざるを得ないのである。
我々の住む現象界、物質界が不完全なのはそのためである。
 
 
それゆえ「万有は一者」、「全は一」なんだと。
 
さて、お立ち会い。
エド達はなんと言っていた?

「全は世界、一はオレ」
  
では「万有は一」をこれと同じに置き換えるなら、何とする?
本当にこれも同じく「全は世界、一はオレ」なのか。
   
逆、なんだよ。まったくの逆。
  
物質界の「オレ」が、イデア界の「一」になるわけないだろう。
「オレ」を使うなら「全はオレたち、一は神」だろうか。
   
新プラトン論において、この世界はすべて「一者」によってあふれだした世界だ。
「一」を「オレ」と置くなら、それはすなわち「オレ=神」と言っているようなもの。
  
こちらの世界の錬金術に照らしあわせるなら。エドやアル、イズミ、そしてスカーの兄の発想はまったく錬金術を理解していないトンチンカンなものだったと言っていいような代物だったんだ。
 
 
ここでグノーシスに触れる。
 
グノーシスは「東方」の宗教だと先に述べた。
アメストリスの「東方」と言えば何がある?
クセルクセスだ。
 
本編中でアメストリスがアメリカに例えられたように、ならばクセルクセスもまた「東方」に置き換えてもいいんじゃないかな。
ホーエンハイムが学び、フラスコの中の小人が理解していた錬金術の思想。
「全てのものは一から作り出され全てのものは一へと帰って行く すなわち一は全 一により全があり一の中に全がある 一が全を含まなければ全は無なり」
エメラルド板にはこうある。(『エメラルド板』Emerald Tablet of Hermes - Macrocosm 参考)
そしてすべての物が一なるものを思念することによって実存し、一なるものよりやって来るように、、すべての物はこの唯一なる物から適応を通じて生み落とされた。
これこそが、こちらの世界の錬金術師の教義だったかもしれない。
「一者は(世界を)創造しない」ので「一から作りだされ」はしない為、まったく同じとは言わないが。
「一が全を含まなければ全は無なり」これが、エド達がヨック島で手にしたあの理屈にはどうもそぐわない気がして実はずっと気になっていた。
エド、アル、イズミ(それとスカー兄も?)は、錬金術の真髄を、350年前から存在していたとされるものを師から学んだのではなく、世界と向き合う事で自ら導き出した。
だからアメストリスの錬金術師達の知識とはどこかズレているんじゃないか? という設定だったら面白いのになと思っていたので、多少なりとも無意識の誤誘導がないとは言えない。
 
だが。フラスコの中の小人は確かに、「一者」=唯一神になることを望んだ。
この考えは本当に穿ちすぎなだけだろうか?
  
 
さきほど先送りにした結論の為に、ここでもう一度フラメルを出す。
あの紋章はフラメルの紋章ではないかも知れないと先に触れた。

フラメルの紋章は偽物だったと仮定する。
さらに主人公の使う錬金術は、西の賢者・東の賢者によって伝えられた錬金術から外れたまがい物だった。
偽物の錬金術を使う主人公が、偽物の錬金術書の紋章を身に纏う。
これは偶然か?
  
  
また別の話をする。
アダムとイブは蛇にそそのかされ、原罪(善悪と知恵の実を食べた)によって、楽園を追放され全き人間ではなくなった。
全き人間。つまり不死ではなくなったというわけだ。原罪を「得た」ことによって。
 
ならばフラスコの中の小人が、原罪(=七つの大罪)を「捨てる」ことで、全き人間になり不死になれる事を信じたのだとしたら、それは旧約聖書的解釈として至極全うだったということになる。
  
  
さらに別の話だ。
ヘルメス哲学の上のリンク先にはこのように在る。
錬金術師はこう言う「地球は最大の蒸溜器である」と。
フラスコの中の小人は、地球を使って人体錬成を行った。
それはまさに神の実験場を模したものではなかったか?

さらにこうある。
赤エリクシルとは太陽を創造する形相のことをさし(e)とは太陽が最高天上界より光を大量に受けることを象徴するのであろう。こうして錬金術師は太陽の効能によって霊薬たる形相を我が質料に齎そうと考えたのであろう。
賢者の石は太陽さえ創造出来る形相である。太陽の力によって賢者の石の質料を手に入れようとした。
ということだ、と思う(ちょっと自信なし・笑)。
これは、フラスコの中の小人がやった事ではなかったか?
 
 
これらはすべて偶然なのだろうか?
連載を始める前に錬金術について一通りは調べているはずだ。たしかエジプトの錬金術について資料が一冊しかなかったとインタビューでもかたっていた。
    
「全は一、一は全」がまったくグノーシスからズレているのは、単に理解不足や適当に考えた結果だったのだろうか? それとも理解した上で外してみせたのだろうか?
クセルクセスがアメストリスより東にあるのは偶然か?
エド達が、フラメルの紋章を身につけるマークに選んだのも。
原罪、全き人間、不死 のキーワードがすべて失楽園に由来するのも。
地球を使った錬成も、太陽を引き込んだのも。
 
すべて偶然なんだろうか?
  
残念だよなぁ、と思う。もったいない事ばかりしている。
もっときちんと伏線として機能させれば良かったのに。
台詞が無理なら、賢者の石の説明を冒頭に入れた「第11話 二人の守護者」のような方法だってあっただろう。
何故あの世界にキリスト教はないと物語に縛りを設けてしまったのだろう。水島版のように「かつてあった」としても問題は無かったはずだ。
錬金術を使い、旧約聖書に出てくる「青銅の蛇(=イエスの磔刑)」を主人公に背負わせている時点ですでにもうそこに矛盾は出ているというのに。
 
グノーシスについて、ヘルメスについて、旧約聖書について多少なりとも語っておけば良かったんだ。
エドに錬金術の蘊蓄として語らせることだって出来たはずだ。
  
フラメルの紋章が「贖罪」だと分かっていればそれを見る目も変わっていただろう。
エド達と、ロイやホーエンハイムとの錬金術のズレはエピソードとして描くことは可能だったと思う。
原罪とは何かに触れて、そのうえで、フラスコの中の小人は本当は人間に成りたかった、とすれば良かったのに何故途中から知識が欲しかっただけ、にシフトチェンジしてしまったんだろう。
地球と太陽については錬金術師の解説として触れる事が可能だったはずだ。アメストリス人が「地球」を惑星だと知ってるなんて知らなかったもの。ガンガン2010年4月号 鋼の錬金術師第105話「神の御座」ネタバレ感想で、ものごっつ怒った。
   
荒川先生は伏線の張り方がとんでもなく上手いと思う反面、とんでもなくヘタだと思う。
これだから、荒川弘は二人いるんじゃないか、と思っちゃうんだよなぁ。

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