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ユリイカ 2010年12月号 感想6

鋼の二つ名は伊達じゃない 入江哲朗

タイトルダサ…(爆)。
今回これほど難解な文章はそう多くない(つまり他にもあったわけだが)。
職業柄、難文ってやつには嫌ってほど耐性がついているのだけど、これはちょっとひどい。けど。
きっちり読み下してみると。
 
今回、この論考が一番面白かったかもしれない!!!
 
でも確かにこの文章は難解過ぎるなぁ。
実在論と唯名論がどんなものか把握出来ないとてんで話についていけない。
なので色々調べて要約っぽいものを書いておく。

・実在論:
「エド」「アル」といった個の存在は感覚世界のものであり、真に実在するのは「人間」という概念である。そしてそれこそが普遍なのだ。

・唯名論:
概念は単なる音声に過ぎない。「エド」「アル」といった固有の名を持つ具体的な個物こそが実在している。

とさくっとそんな感じの事は本文中にも書かれていますが。
何も知らない人間からすると、そもそも、実在論ってのがなんでそんな発想してるのか不明じゃね?
実在論は、プラトンのイデア論、アリストテレスの形而上学 を合わせたようなものと把握すればいいっぽい?
 
・イデア論の由来:
万物は流転し自然界は絶えず変化しているという説があり、物事はすべて本人の主観でそう見えるだけであり客観的な真理は存在しないという説がある。
これを合わせると人間は真理を把握することが出来ないという結論になってしまう。
そこでプラトンは変転する現象の背後に普遍的なものの存在があることを主張した。

・イデア論(プラトン):
個別の事物の背後には、その本質であるイデア (Idea) が実在する
感覚することができるこの世界は実在するものでなくイデアの射影である。個々の感覚を理性で把握することによってのみイデアは認識できる。
しかし人間の持つ感覚は不完全なため、五感によってそのイデアを捉えることは出来ない。
またイデアは個物から独立して存在する実体である。
イデアは日本語では、本質、概念、真理などと訳される。

・形而上学(アリストテレス):
形相(質料を用いてつくられたかたち)は、そのもののマテリアルな素材である質料(内容、素材)と分離不可能で内在的なものである
また「魂とは可能的に生命をもつ自然物体(肉体)の形相であらねばならぬ」と語る。
つまり、魂(形相)は肉体(質料)によって内在的に作られたものである。
 
 
例えるなら判子が「イデア」、判子によって押された刻印が「エイドス」。判子は刻印から独立して実在するが、刻印はつねに質料(この場合、インクの成分と紙の成分も含まれるのか?)とセットになったかたちでしか実在し得ない
 
 
参考文献はこちら
実在論 wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96
唯名論 wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E5%90%8D%E8%AB%96
形相 wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E7%9B%B8
イデア論 wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A2%E8%AB%96
プラトン wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3
普遍論争 wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E9%81%8D%E8%AB%96%E4%BA%89
哲学用語集(形成)
http://www.geocities.jp/vivelejapon1945/philo.html
 
 
途中で挫折してしまった方がもしいたら、どんだけ面白い事が書いてあるのか知って欲しいので。
まずはブロックごとに要約をまとめ、そのうえで感想書きます。
まがりなりにも文筆業を生業にしている(のか? 現役大学生のようだが)方の文章を翻訳なんざおこがましいが。
やっぱりこういうのは、まったく何も知らない人間の方が、同じような人向けになら、かゆい処に手が届く書き方が出来ると思うのよね。
 
ただしこれもまた自分なりの解釈なので勘違いがあったらご容赦を。
 

P98 上段 L1~9
『鋼の錬金術師』という作品はある意味で中世的である
 

P98 上段 L10~15 下段 L1~14
「アルは人間である」という文に対し、「人間」という概念は形相的に実在するとするのが実在論。
「アル」という個こそが存在し、概念は実在しないとするのが唯名論。
 

P98 下段 L15 P99 上段 L1~22
「真理」は概念でありながら、『鋼』においては「ぶっとば」すことが可能な、存在として描かれている。
ローティの言葉に「世界と同様、真理もそこに在るという思いつきは、世界をそれ自身の言語をもった存在者の創造物だとみなしていた時代の遺産」とある。
「真理もそこに在るという思いつきは、時代の遺産」。つまり、この真理が存在するという発想自体が中世的なのだ。
 

P99 上段 L23~24 下段 L1~14
余談 錬金術と普遍戦争の結びつきについて
 

P99 下段 L15~24 P100 上段 L1~21
『鋼』は仮想世界であるがゆえに「名前」と「存在」の関係は現実と違う意味を持つ。『鋼』のこだわりは「固有名」ではなく「一般名」にある


P100 上段 L24 下段 L1~L23
「鋼の錬金術師」エドは鋼の手足を持った、文字通り「鋼の」錬金術師だ。
 

P100 下段 L24 P101 上段 L1~24 下段 L1~7
トリシャの構成成分は判っても人体錬成は出来なかった。人間を性質の束に還元しても(水35リットル 炭素20キログラム…)「足りない何か」があるのだ。
言語哲学にも同じ言葉がある。「固有名には諸性質の束へ還元されない剰余が宿る」。
 

P101 下段 L8~14
『鋼』に「人の命は足し算や引き算ではない!!」という台詞がある通り、「人の命」(=固有名)を「足し算や引き算」(=諸性質の束=集合体)で捉える思想を持つものが、主人公たちの戦う相手だ


P101 下段 L15~24 P102 上段 L1~10
賢者の石に対し、ホーエンハイムは個の名前を呼び、フラスコの中の小人は「五百万人分の賢者の石」という集合体で捉えた。

10
P102 上段 L11~18
固有名は性質の束に還元出来ない。7ブロックで述べたように「足りない何か」があるのだ。
固有名こそがその「個」を網羅把握している言語なのだ。
 
母親を性質の束と捉えていた兄弟が「等価交換を原則とする錬金術」を捨てる事で物語が終わる事は言語哲学的にも理に適っているのだ
 
11
P102 上段 L19~24 下段 L1~17
しかし、最後に等価交換が否定されることは、物語の構成上誰しも分かっていた事である。
そうでありながら何故、等価交換は強調されていたのか。
それはゴールまでの迂回路にこそ作品の価値があるという仮説が成り立つ。そこにこそ著書が『鋼』が中世的であるとする理由がある

12
P102 下段 L20~24 P103 上段L1~6
『鋼』は固有名が少ない それは以下の二点から明らかだ

13
P103 上段 L7~24 下段 L1~3
第一に、賢者の石になった人間の魂。<人ならざるもの>。
賢者の石となった人間の魂は、すでに人間という属性ですらなく固有名も持たない。
属性も固有名も無くとも、エドは彼らを「人間」という性質に属するものと捉えていた。
彼らを仮に<名よりちいさきもの>とする。
それは固有名という実在する「個」ではなく、その奥にある何かによってエドは人間と判断しているのだろう。
そして主人公の敵は、<名よりちいさきもの>と見なしながらも、彼ら自身もまた固有名を持たぬ、「人間」という属性でもない<人ならざるもの>なのだ。
 
14
P103 下段 L4~24 P104 上段 L1
第二に、スカーやホムンクルスの名前は全て固有名ではなく一般名である。
さらにホムンクルスの場合、例えば「スロウス」は文字通り「怠惰」でありその「性質」すら表している。
 
15
P104 上段 L2~11
他にも、暗号といった個を指定する以外のものに固有名が使われていたり。

16
P104 上段 L12~20
「キング・ブラッドレイ」は実質この国の王であり、「リザ・ホークアイ」は鷹の目を持つ狙撃者である

17
P104 上段 L21~24 下段 L1~7
「名が体を表」し、「性質」であるはずの「一般名」がそこに数多く「存在」しているのだ
そして「名が体を表す」という言語観は、まさに16世紀=中世の考え方である。
※1 シニフィカシオン:「Τ」という記号を日本語で「丁(てい)」英語で「T(ティ)」と発音するのは必然ではなく偶然である。必然ならばどの国であれば「Τ」は「て・い」と発音されなければならない
※2 トリカブトの種子が眼に似ている:それによってトリカブトが眼病に効く事を示しているという考え 
「世界という散文」『言葉と物』 参照
第二章 世界という散文 <二.外徴> 参照

18
P104 下段 L10~24 P105 上段 L1~12
物語では<固有名>と<名より小さきもの>がする。
エドの目に映る<名より小さきもの>の正体はいったい何なのか。
エドが何をもって<名より小さきもの>を「人間」と見なしたのかを見極める事によって。
何が「人間」であり、何が「人間」ではないのか? 「個のキャラクターとはどこからくるのか?」その問題提起をすることが出来たはずだった。
しかし、『鋼』は<人ならざるもの>を倒し<人間>が君臨するという分かりやすい結末で終ってしまった

19
P105 上段 L13~24 下段 L1~7
ここで現実における言語観を顧みる。
<体を表す名>は、そこに個の「存在」があろうと一般名である以上その名は概念である。すなわち実在論であると言える。
また<固有名>を<確定記述>に置き換えられないことは7ブロック、10ブロックで記述した。
また10ブロックにて<固有名>こそが「個」を構成していることも述べた。
例えば「アル」についての確定事項を「金髪金眼の少年」とした場合、「金髪金眼の少年」を「アル」の固有名に置き換える事は出来ない。なぜなら「エド」も「金髪金眼の少年」であり、「アル」という「個」だけを示すものではないからだ。「アルフォンス・エルリック」という言葉だけが「アル」という「個」を正しく構成している事になる。
しかし「「金髪金眼の少年」だろうがなかろうが「アル」は「アル」」なのだ。
<確定事項>を「名前」(アル)の根拠(金髪金眼の少年)と置こうとする時点でそれは実在論なのだ。
つまり狭義的に見ると、唯名論とはその名の通り「アル」「エド」「トリシャ」など、ただ固有名のみでなければ成り立たない論説なのである。
『鋼』は実在論的な言語観を持つ点において中世的である。しかし現実もまた中世的な実在論的言語観は存在しているのだ。

20
P105 下段 L8~14
実在論という世界観の中でエドが出した結論「等価交換の否定」は、<固有名>のかけがえの無さを理解し、「鋼の錬金術師」という<体を表す名>を捨てることにあった。

21
P106 上段 L1~23
「鋼の心」は隠喩である。そして一般名詞の隠喩による効果は他のいかなる言葉にも等価交換出来ない「一枚の画像」のようなものであると、ディヴィドソンは言う。「鋼の心」の文字が登場人物の写真の上に置かれていたのは偶然だろうか

22
P106 上段 L24 下段 L1
『鋼の錬金術師』という物語は、固有名を使わない事にこだわった。
エドは<固有名>のかけがえの無さを理解し、「鋼の錬金術師」という<体を表す名>を捨て、しかし一般名詞による隠喩を手に入れるのだ。
錬金術と実在論という中世的な特色の中で到達した結論は奇しくも、現実で直面しているある問題(19ブロック参照)の核を掴んでいた事になる。
  
  
  
大まかな雰囲気はわかったかなぁ。分かると良いなぁ。
とりあえず、『鋼』の世界は論理哲学(?)的見地で見るとおもしろいほど重なる部分がある事が分かるってのが面白い。
  
実際のところ、一般名詞が多いのは荒川マンガの特色であって『鋼』の特色ではない。
上海の「ジャック」はジャック・ザ・リッパー(ネタバレ防止)だし。
RAIDEN-18は相撲の雷電から作ったからだし。
蒼天の蝙蝠の蝙蝠丸は、コウモリと同じ闇にしか住めない者の名だ。
なのでそこらへんを語ってしまうと身も蓋もなくなってしまうのだけどね。

でも。
さんざん私も感想で書いていた事が、それを哲学的見地で語られることになるとは思わなかったわ(ブロック18参照)。
<固有名>は集合体に還元できない。人間は「水35リットル 炭素20キログラム…」では還元できない「足りない何か」がある。
固有名また同じ。固有名こそがその「個」を全て網羅把握し構成している存在なのだ。
しかしエドは、人間ではないものを人間と定義していた。
それはいったい何だったのか?
登場してきた数々の<人間>。
鎧の体を持つ弟や囚人、犬と合成させられた少女、化け物エンヴィーの身体に張り付いていた魂、人体錬成に失敗した歪つな生き物、作られた人間、また殲滅させられ人らしい暮らしを奪われたイシュヴァール人もある意味それに当たるかもしれない。
他者から<人間>と見なされないものを<人間>ととらえるエドの目にはいったい何が映っているのか。

人間は「イデア」、トリシャは「エイドス」であり「形相」、水35リットル 炭素20キログラム… は「質料」。
ならば、人間は「イデア」、アルは「エイドス」であり「形相」とした場合、「質料」は何になるのだろうか?
また、犬の質料の混じったニーナは? 人間と同じ成分だと言ったキンブリーは? 賢者の石を内包したリンは? 人間と同じ成分で作ったはずなのに人体錬成に失敗したあの生き物は? 500万人の賢者の石を持つホーエンハイムは? ホーエンハイムという形成を真似たフラスコの中の小人は?
 
なのに『鋼』は「<人間>ならざるもの」を倒し<人間>が君臨するという分かりやすい結末で終ってしまった

もしこれに対しエドが答えを出していたなら、うん面白かったろうな。
すごく気になる。
 
アルにもスライサーにも人の魂が定着されていた。
タッカーの作ったキメラにはニーナの記憶があった。
軍に作られたキメラ達も<人間>としての心があった。
エンヴィーに張りついていたのは人の魂だ。
人体錬成の時の生き物には確かに魂が宿っていた(後でそれがアルだと分かったわけだが)
一見、エドは「人間の魂」が宿っているものであれば<人間>として定義しているようにも見えた。
しかし。
アルと同じく賢者の石という魂を定着させた一つ目の人形を仲間が殺すのは静観していた。
賢者の石を核とするホムンクルスは殺さず。
そして、同じく賢者の石を核としてたお父様を殺した。
 
エドにとって結局<人間>の定義とは何だったのか。
荒川先生の答えが知りたかったな。
 
そしてまた、普遍論争においてトマス・アクィナスはこんな事を言っている。
形而上学上から言えば、死ぬということは魂(形成)が肉体(質料)から分離することとなる。
ならば霊魂は質料を持たない完全な形相なので死によって分離は生じない。ゆえに霊魂は不死である。
 
肉体から分離しても霊魂は不死。
その意味においても、鋼は中世的と言えるのかもしれない。

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コメント

おひさしぶりです、もみじです。

今回の考察も興味深く拝読いたしました。
難しいけど、哲学的で面白かったです。
考察された事を、自分なりにも考えましたので、ご意見をお聞かせ下されば嬉しいです。

生きた肉体=イデア(質量)=生き物という一くくりの概念(一般名)
対して、
魂=エイドス(形相)=固有名をもつもの(キャラクター)
 
「生きた肉体」と「魂」の関係はハンコと刻印の関係。
ハンコは刻印なしに存在できるが、刻印はハンコが無ければ作れない。

ということは、「生きた肉体」は「魂」を持っているとは限らない。一方で、「魂」は「生きた肉体」が先行してこそ存在できるもの。でも、「魂」は肉体が死んでも存在する事がある。(ハンコが壊れたり燃えたりしても、刻印はインクや紙が退色したり擦り減ったりしない限り残るから)

 そういう意味でホーエンやお父様の中の魂は、もとの肉体が滅んでもまだ残っていると言える。
一方で、先ほど書きましたように「生きた肉体」は「魂」を持っているとは限らない…持っているかもしれないし、持っていないかもしれない。本当の刻印は人間の五感で認識できるが、「魂」を認識するには五感のどれを使えばいいのか…「人為的に作られた肉体」や「人ならざる者」に「魂」があるかないかは、会話が成り立つかどうかで判断するくらいなのではないだろうか?

 キメラ兵やアレクサンダーとニーナのキメラや、ホーエンの中の古代の人々と、会話は成り立った。でも、人形兵とは成り立ちそうにない…エドはそう判断して「魂」は宿っていないと認識したのではないでしょうか。その認識の正誤は判らないけれど、正誤が判らないからこそ世界は個人の認識で成り立っているともいえるし。

 ならば、等価交換も、何を持って等価とするのかは、個々人の判断であるなあと、そんな風に思った事でした。

>もみじさま
返事が遅くなってすみません。
ちょっとすでに次の感想の新プラトン論の解釈に頭が行っていたので、またこっちに思考を戻すのに時間がかかっちゃいましたー(言い訳・笑)。
  
私も昨日今日ネットで知識を仕入れて書いているレベルなので確かな事が言えないのですが。
ごめんなさい。実在論について根っこの部分で私と解釈が違っているような気がします。
なのでロジックはこの際すっとばしますね(笑)。
 
結論だけを言うならば。
 
若干元記事との重複になりますが。
「会話が成り立つ」がエドの人間認識であるなら。
エンヴィーに張り付いていた魂との会話は成り立っていませんし、
(唯一意志の疎通があったと思われる「ありがとう」の台詞は、エドが殺せないエピソードよりも後)
エドとアルが人体錬成したトリシャだと思っていたものについても同様です。
会話は成り立っていない。だけど、エドは彼らを人間と認識しました。

また「魂が宿っているか否かの認識」がその判断基準であるならば。
「人形に魂を乗せてやがるな」と言ったのは誰あろうエドです。
また、「アルフォンスみたいなもんか」の返事にエドは否定しませんでした。
エドは「魂」が宿っていないとは認識していません。
 
 
>その認識の正誤は判らないけれど、正誤が判らないからこそ世界は個人の認識で成り立っているともいえるし。

個人の認識でしかないから「こそ」ですよ。
エドの人間の定義の正誤に関係なく、ただエドの目に何が見えていたのかが知りたかった。
でもそれだって、エドの目に見えているものを知る事で、<人間とは何か>を全て把握出来ると思っていたわけでもありません。
ただ、自分には見えていなかったものが、人によってはこうも見えるものなんだな、と。
ひとつの見方を提示する事で、<人間とは何か>。その片鱗は見えたのではないか。
それを問題提起とする事で「鋼の錬金術師」という世界はもっと広く描けたはずだと私は思うんです。
 
例えば「エドの行動には矛盾があった」。それが結論ならそれでもいいんです。それを物語上で語りさえしてくれれば。それをどう捌こうが物語は面白く出来たはずです。
けれど、エドの行動の矛盾は放置され、その行動原理が何だったのか分からないまま物語は終了しました。
これは、「読者が想像すればいいことです」という代物でもない。
行動に矛盾があるのにその行動原理なんて想像出来るわけがない。
それを「人それぞれなんだから何だっていいじゃん」と思考停止を強制されてしまったら。

じゃあ何のためにこれほどまで執拗に描いてきたのか。
それでは、そこまでの流れが全て無意味なものになってしまう。
 
等価交換をあげられていますが。それも同じではないでしょうか。
個々人の判断なんだから等価なんて「何でもいいじゃん」では等価交換は成り立ちません。
相手が何を等価と考えるかを理解し受け入れて、初めて等価交換は成立するものなのではないでしょうか?
私はそう考えます。

レスありがとうございます。
「人形兵に魂を乗せてやがるな」とエドが言った事、ありましたよね~そうでした、そうでした。エンヴィーにくっついていた魂や、母親の失敗作もりほさまの言われる通り、会話が成り立っていませんね。
 そうなると、確かにエドの人間の定義って何なんでしょうかね?多分人形兵の魂は「怨念のかたまり」なのでしょうし、対してエンヴィーにひっついていたやつは「昇天したいけど出来ない普通の市民の魂」と思われ、失敗作母は「アルの魂」が宿っていたんでしたね。憶測するに、人形兵の魂は「怨念のかたまり」だからエドにとっては切り捨てても良い存在なのかなあ?
 言われる通り会話が成り立つかどうかは基準では無かったですね。お父様とも会話は成り立つし。
では、自分たち(普通の人間)の生命を全否定するもの=人間とはみなさない  というのがエドのスタンスかな?
 作者自身も、「家畜に魂があるのか無いのかそれはたぶんずっとわかりません」みたいな発言をしていましたが、現実でも魂の問題は未知の領域なようです。

 等価交換に関して、「相手が何を受けいれるか理解して初めて成り立つ」というご指摘、これは素晴らしいご指摘です。相手の事を理解する…これは思いやりのある大人の視点です。恥ずかしながらわたしにとって新鮮でした。いい大人なのに…
 そこで思うに、「真理の野郎」って或る意味「自分自身」なんですよね?「おれはおまえだ」って真理が言っていたので。
ということは、一番初めに腕一本犠牲にしてアルの魂しか引っ張りだせなかったのも、最後の錬成で自分の扉を犠牲にしてアルの全身をひっぱりだしたのも、「真理という神様のような他者」が腕や扉を持っていったというのではなく、エド自身が腕の価値=魂、扉=アルの全身という等価交換が成り立つと思ったからなのではないでしょうか…飛躍しすぎですか?
 「心臓だってくれてやる」という言葉は、本気だったのでしょうが、冷静に考えてみれば「やっぱり腕一本が限度だぜ。すでに足ももげてるし」って、無意識に思っていたんじゃないかなあ、だって心臓が無くなれば死ぬし、更に身体を捧げれば出血多量ですから。
 その当時は、苦難の旅も経ておらず、従って捧げる扉もまだあまり価値がないものです、取りあえず脚の他にはもうあと腕一本が限界だったはず。

 賢者の石は他人の命で出来ているから使わない。だったら、自分の何かを犠牲にするしかない。旅するうちにそのような結論に至り、成し遂げた。ながい物語は無駄ではないと思うし、わたしにとっては良かったんですよ~(笑)

私の上記コメントの文章に一文挿入をさせてくださいませ(笑)
>そこで思うに、「真理の野郎」って或る意味「自分自身」
の前に、この一文を。

 ただ、それは当然ながら相手が「他者」であるときの取引のケースです、そしてもちろん普通は相手は「他者」であるに決まっています。でも、ハガレンの「真理」の正体って?

 たいへん失礼いたしました。
気長~に御返事をいただけるのを楽しみにしておりますね~

こんばんは。突然違う人間が入って来てすみません(笑)

もみじさま

> 人形兵の魂は「怨念のかたまり」だからエドにとっては切り捨てても良い存在なのかなあ?
> 自分たち(普通の人間)の生命を全否定するもの=人間とはみなさない  というのがエドのスタンスかな?
> 冷静に考えてみれば「やっぱり腕一本が限度だぜ。すでに足ももげてるし」って、無意識に思っていたんじゃないかなあ
> 取りあえず脚の他にはもうあと腕一本が限界だったはず。


これらは皆、もみじさまの「想像」であって
憶測の域を出ませんよね?

そして「鋼の錬金術師」という作品の中で、
もしかしてこの「想像」が当たっているのではないか!
と思わせるような場面も、私には思い当たりません。

りほさんは
「そこが『鋼の錬金術師』という物語の中で
 きちんと描かれていない、語られていないのがとても残念だ」
と書いていらっしゃるのだと思います。

「想像の余地と余韻が残る」と
「登場人物の行動理念が不明瞭」は
当たり前の話ですけど、全く別のものだと思います。

もみじさまの「想像」は
個人的に、読んでいて楽しいですけれども

ここ(コメント欄)は、
もみじさまの「疑問」や「作品に対する感想」に対して
りほさんが答える場所ではないと思いますよ。

私自身、ブログというものを
あまり堅苦しく、枠にはめて考えているわけではないのですが
それでも「ここ」の基本ラインは
【ユリイカの感想】に対するコメントだと思います。

出過ぎた口を挟みました。

りほさんにも、もみじさまにもごめんなさい!


> しかし、『鋼』は<人ならざるもの>を倒し<人間>が君臨するという分かりやすい結末で終ってしまった

もちろん「分かりやすい結末」が「お、いいね!」という人も
たくさんいるのだとは思うのですが

こうシンプルに書かれると
改めて、ショックですね(笑)

「ええ、全くそうですよね。(苦笑)」と
言うしかありません。

>もみじさま
レスありがとうございます。

>では、自分たち(普通の人間)の生命を全否定するもの=人間とはみなさない  というのがエドのスタンスかな?
 
そう考えると今度は、スライサーの件が矛盾するんです。
自分を殺そうとした敵に対して「人殺しは勘弁しろ」と言っているわけですから。
一応その辺りは私もシュミレート済みで書いてます(笑)。
 
ですから、どの側面から切り出そうとしても、エドの言動には筋が通っていないんです。
ならばその理由はなんだったのか?
または、(「エドが」あるいは「作者が」)何も考えていなかったゆえの結果がこれだったのか。
それは分かりませんが、そう描いたからには、後始末はきちんとつけて欲しかったと思うんですけどね。
 
 
真理の扉の前では、本音が見えるんですか?
閻魔様の浄玻璃鏡みたいですね。
でも個人的には、エドがそんな気持ちでいたのならいやだなー(笑)
あの必死なシーンで実は
「心臓だってくれてやる! あ、やっぱ心臓全部は無し。9割? いや8割? かな? 7じゃないな、8.5」
とか内心思っていたのだとしたら、ちょっと幻滅・・・・・・。
やっぱりあの時は、1人ここに取り残されたくない、怖い。いやだ、返せ、返せないなら自分を連れて行け。みたいな気持ちから出た本音だと思いたいです。
  
すでに別の記事にも書いている通り、私は真理だけは唯一「等価交換」が通じない相手だと思っているんです。
真理=荒神=自然(=世界)と捉え。
「百姓貴族」に描いているような、作物を育てていても川が氾濫したら全部流されてしまうように、人間にはまったく理解が出来ない、だから「対価が理解出来ない」、そんな象徴のようなもの。
でも人は、人同士なら理解しあえるのだから「等価交換」は成り立つよね、という感じかなと。
ただこれも欠点があって。

これが水島版だったら問題ありませんでした。水島版は「本当は等価交換なんてこの世に存在しなかった。でも、無駄な努力なんてない、努力すればその対価は必ず手に入る。それを信じたいよ」が落としどころだったので。
等価交換が通用しない=真理=世界=等価交換は存在しなかった ですが。
 
けれど荒川版は違います。「この世には確かに犠牲がないと成り立たない等価交換が存在する。でも犠牲がなくとも与えられる対価があってもいいはず。それを信じたいよ」です(多分)。
それは等価交換の否定ではなく、等価交換の可能性の話をしているのだとは思うんです。
つまり、等価交換が通用しない=真理=世界=等価交換は存在する これでは矛盾してしまう。
 
それに、最終話では真理くんとエドはどうにも理解し合っているようでしたしね。
FAは真理(=自然)にケンカをふっかけて賭けに出ているからまだいいものの、荒川版だとエドが真理くんに馴染んでしまっていて。たかが1人の人間が自然相手に協定を結べてしまう世界というのも、あまりしっくりこなくて。
 
でも、この矛盾が私の思考方向の誤りによるものなのか、荒川先生の中ですでに発生しているものなのか。
それすらも判断出来る情報は提示されていません。
やはり問題はそこにあると感じています。
<人間とは何か>それが提示されることによって、その比較として<真理とは何か>まで持って行く事だって出来たかもしれない。
 
 
>賢者の石は他人の命で出来ているから使わない。だったら、自分の何かを犠牲にするしかない。旅するうちにそのような結論に至り、成し遂げた。ながい物語は無駄ではないと思うし、わたしにとっては良かったんですよ~(笑)

あ、済みません。そのあたりを否定する記事を書く気満々なんです、実は(笑)。
ユリイカの論考、「パラケルススの「裔」として」の感想で。
どこをどう否定するかは、よろしければその時に。
 

>Mじさま
こんばんは
言いづらい事言わせてしまってごめんなさい。ありがとう。
私も元記事を確認せず、コメントに直結したレスを書くものだから、どんどん元記事から話がズレてしまうんですよね。
確かに元記事からコメントまで続けて読む側からすれば、「で? 元々何の話だったっけ?」になってしまっているものがいくつか(笑)。
こちらでもなるべく軌道修正するよう、気をつけねばですねっ。
 
 
>「ええ、全くそうですよね。(苦笑)」と
>言うしかありません。

ええ、本当に・・・。
これぞ、「少年マンガの王道」ですものね。
あの文章は、「今まで「少年マンガ」という枠にはまらない事を色々やってきたのに、最後に来て「少年マンガだから」で終わらせてしまったのが残念」という感情を理性的に解釈するとこうなる、といういい一例ですよね(笑)。

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