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ユリイカ 2010年12月号 感想12

変容と破壊をめぐる想像力 中尾麻伊香
  
「賢者の石」が核に例えられる話題は昔も良くあった。
アニメ夜話でも會川さんが「そうはしなかった」という話をしていた。理由としては、現実のメタファーで終わってしまうから。
    
じゃあ、荒川鋼ではどうだったのか。

賢者の石が人間の魂で出来ていると分かってしまった段階から、もう賢者の石から疎遠になり、存在自体が影の薄いものになってしまった。
どちらかというと最後は救済か。
これまた核兵器としてのメタファーからは程遠い。
   
ところが、「賢者の石」という個ではなく、錬金術やホムンクルス、フラスコの中の小人といった物語全体の流れを捉えて、核兵器のメタファーを語る話はついぞ見なかった気がする。
  
果たして本当に核兵器のメタファーだったのか。
それが本当なら、會川さんが言うように現実のメタファーにする事で、その先に行けなくなってしまったのか?
 
 
戦場を見たあとで「人に幸福をもたらすべき錬金術がなぜ人殺しに使われているのですか」というマスタングに対するリザ・ホークアイの発言にも見られる。これに対してマスタングは答えることができない。錬金術師たちにとっての挫折であった
そういえばそうでした。
シャンバラで「人を幸福にしない科学なんて科学じゃない」と自分の正義を振りかざしていたアルが、錬金術で人を不幸にしてしまった事と、イシュヴァール殲滅戦が重なっていた事に初めて気がついた。
イシュヴァール殲滅戦は、リザや、キンブリー、ノックス、マルコー、ロックベル夫妻など様々な立場から語られる群像劇であり、さらに誰もが「命令に従う立場」として語られる部分が多かったため、どうもそこに関する焦点はぼやけがちだったように思う。けれど言われてみれば確かに。
あれは、「国民を守るための軍隊」の崩壊だけではなく、「人を幸せにするための錬金術」の崩壊でもあったんだ。
国家錬金術師と戦火の科学者とを重ねて見ることが、確かに可能なのかもしれない。
  
 
人類にとっての終末”来るべき日”へと準備を進める彼らの身体の変容は、変容から破壊へとつながるメタファーとなっているのである。
なるほど、発想としては面白い。
「終末」という言葉を用いることで、確かにそこに某かの意図があるように見える。
けれど、徐々に物事が明らかになり人や世界が変容していくあるいは変容したように見えてくるのは、エンターテイメント性を持つ物語の構造ならばありきたり、むしろ当たり前と言ってしまう事も出来る。
これはそれほど的を射たものか? と考えると私はちょっと頭を捻るなぁ。
 
 
外見からは想像もつかないほどのエネルギー体であるそれはまた、原爆も暗示している
「お父様」の持つエネルギーが原爆と捉えた時。
では、ホーエンハイムのカウンターは何にあたるんだろう? スカーのリミット解放は?
力には力による報復を。
核兵器は核兵器をもってしか制するが出来ない事への暗喩だというのか? さらにリミッターまで外したとしたら。
 
…グロ過ぎだろ。
 
どこまでいっても、強い力で強い力をねじ伏せるシーソーゲームが続いていく。
  
発動されるまでは、確かにメタファーとして捉えられる要素はあるかもしれない。
けれどやはり核兵器のメタファーではないんじゃないんだろうか? そう思う。
   
  
ただ。この発想、ちょっと面白いんだよな。
 
原爆は太陽に喩えられたが、錬金術にとって太陽は金のシンボルであった。錬金術師たちは、炉のなかでの金の生成を、太陽の春の復活(spring resurrection)と考えていた。錬金術師たちはこの日の到来を望んでいたのだろうか、それとも恐れていたのだろうか
錬金術師は賢者の石の質料を太陽と捉えていたと言う。
『鋼』にも登場する「太陽を飲み込む緑色の獅子」は賢者の石を表す。
もう少し詳細に言うなら、緑の獅子は卑金属(緑礬=酸)を、太陽は貴金属(金)を表し、卑金属を貴金属に変える為の媒体となるものが賢者の石だ(『鋼の錬金術師』的幻想世界 ver3.0 解答ページ参照)。
貪欲な錬金術師は太陽すらも獅子に飲み込ませれば、制御出来ると思っていたのかもしれない。
そしてたしかに、エド達錬金術師は、それを制御して見せたんだよなぁ。 
なら獅子は何だったんだろう?
錬金術 wikipediaにはこうにある。
  
硝酸、硫酸、塩酸、王水の発明(中東、8 - 9世紀頃)
緑礬や明礬などの硫酸塩鉱物と硝石を混合、蒸留して硝酸を得た。錬金術師ジャービル・イブン=ハイヤーンは、緑礬や明礬などの硫酸塩鉱物を乾留して硫酸を得、硫酸と食塩を混合して塩酸を得、塩酸と硝酸を混合して王水を得た。

  
「緑礬」により「金」を融かす。錬金術師ハイヤーンは、「太陽を飲み込む緑色の獅子」を元に賢者の石を生成しようとして失敗し、結果として王水が生まれたのだろうか?
ならば王水は出来そこないの賢者の石なのかもしれない。
 
さて。
緑礬は、空気中で風解しやすくまた酸化されて3価の鉄を生じ淡黄色の粉末に変化しやすい緑礬 Wikipedia)とある。
そしてフラスコの中の小人に飲み込まれたグリードは、脆いボロ炭に姿を変える事で逆に、フラスコの中の小人を事実上飲み込んでみせた、と言える。
これを王水の具象化と取る事が出来るんじゃないかな。
「偽物の錬金術を使う主人公が、偽物の錬金術書の紋章を身に纏う」前にそんな事を書いた(ユリイカ 2010年12月号 感想8)。
ここにさらに「偽物の賢者の石により勝機を得た」、を付け加える事が可能なわけだ。
 
緑の獅子はグリードだった、そんな考えも悪くないんじゃないかな。
   
  
そして。
そうか。再構築の錬成陣を手に入れたスカーが、イシュヴァールの再構築に力を貸すんだよな。
まるで何かの符丁のよう。荒川先生はそこまで意識したのかな?
あるものはあるがままを受け入れるのがイシュヴァラ教。
変容を求めないというのなら、スカーがその左手でもって復興を進めるなら、イシュヴァールの民に果たして受け入れられるものなんだろうか?
今度は兄に代わりスカーが、人の幸福の為にと錬金術を説く事になるんだろうな、と思うとなんか微笑ましくて笑える。
   
でもリンはこじつけのように思う。
フラスコの中の小人を倒した際には、すでにグリードはリンから抜けてたわけだしな。
 

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