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ユリイカ 2010年12月号 感想15

マンガはいかにして「人間」を錬成するのか? 岩下朋世
 
話があっちとこっちに飛んで結局どこから、その結論にたどり着いてるのかちょっと混乱するので。
とりあえずまずは要約っ。

1 「アトムの命題」と系譜
マンガは写実ではなく「記号的身体」を描く為、本来「現実」を表現するのに適していない。だが手塚マンガは単純な意味しか示せないはずの「記号」を用いて、複雑な「人間」を表現することに成功した。

2「マンガの現在」
「鋼の錬金術師」はその手塚マンガの正当な嫡出子といえるが、今日のメディアによる語彙を用いて表現されている点において新しい。
ここでは、マンガという本来単純な意味しか示せないはずの媒体で、いかに「人間」の成長や内面を描くかを主体として読んだ場合に、何が見えてくるかを述べる
   
3「描かれた表層」としての身体
大塚英志の論でいくと、「鋼の錬金術師」は「記号的身体」にさらに「人工物」を装具するという二重に写実的ではない表層を用いて「人間」の「成長」を描く事になる。
しかしマンガは「同一性」という特色を持ち、コマによって表情や頭身が異なっていても、読者はそこに相似性を見いだし同一人物である事を認識出来る特殊な媒体である。
これにより本作は「人間」の「内面」を描く為に、「記号的身体」を更に「記号」的要素の強いデフォルメする事で感情表現を行っている。
     
4「他者」としての肉体、「人間」としてのホムンクルス
その「同一性」を効果的に用いているのが鎧アルと生アルの邂逅シーンである。異なる様相、異なる人格で描かれながら、その構図の巧さも相まって同一人物である事に違和感を感じさせない。
また、この「人間」を描く手法になぞらえた存在がいる。
複数の人格をその表層に持ちながら「個」に統合されているエンヴィー。彼がホムンクルスの中で一番「人間臭い」というのも象徴的である。
  
5おわりに
「鋼」は登場人物の「記号的身体」を効果的に描くことにより「人間」の「内面」を描きだし、大塚氏の論を転倒させている。
これによりメディアミックスにおいてキャラ萌えが突出する形になったが、人間の「内面」を描くことで骨太な物語を形成する事を可能としている。
 
 
かなりはしょってますが、方向性としてはおおよそこんな感じじゃないかと。
 
ということで感想です。

この大筋は結構面白い。
いわゆる非実在(笑)的な絵に非実在的な機械鎧や鎧を登場させ、どこまでもリアルから遠ざかっていくキャラクターに、デフォルメをかけさらにリアルから遠ざける事で逆に「人間」を描くことに成功している。
という構図がね。
 
んでもそれ、矛盾してね?
結局デフォルメという「記号的身体」によって「人間」を描けちゃってるわけでしょ?
それって、

マンガのキャラクターの「記号的身体」、つまり、類型的イメージの集積として構成され、表現されたキャラクターの身体は、本来的に「現実」を表現できないものとさ
れる。

この前提条件と矛盾しちゃってない?
  
表現できない理由としては、現実を「写生」したものではないから。ということらしいのだけど。だったらデフォルメは(ry
  
たとえばそれは、ピカソは写実主義では無いから「ゲルニカ」は、リアルな現実を表現できていないという理屈にならないか? いや、ならないと言いたいんだろうか? 出典からの引用だけではどうも分からない。
そしてそのうえで、手塚治虫はそれを覆しているという。
  
具体例が無いとなぁ。
どのようなものが表現できていないものであり、手塚マンガのどういったものが表現出来ているのか。
その対比例が欲しいなぁ。ちぃっとも理解出来なくて困る。
   
なので。以降はすべて全く見当違いな方向で書いているかもしれないのだけど。
    
これは、本誌掲載の「哀しみを背負うものたち」(雑賀恵子)にでてくるロボット工学における「不気味な谷」というやつじゃないんだろうか。
人間に似ていればいるほど人は親しみが沸く。けれど似てくれば似てくるほど今度は死体が動いているような不気味さを覚える。
  
例えば。
私が3DCGアニメが苦手な要因のひとつは、モノの重さが感じられない処にあるのだけど。
飛び降りた時の着地がロボットも人も重力を感じさせないあの軽やかさに、実際の世界とのギャップを感じさせふっと我に返ってしまうんだ。
その絵が実写かと思えるほど立体性を伴った絵であればあるほどその違和感は色濃くなる。
おそらく、現実の動きを無意識にトレースしそれと異なる動きに違和感を感じてしまうのだろう。
  
ところが手書きアニメではそれを感じたことがない。もちろんそれは手書きが重力を感じさせるからじゃない。
はじめから無いものと分かっているから気にならないんだ。
写実的な絵ではないから。
現実の動きのトレースなどそもそも脳が受け付けないのか、あるいは。
 
写実的でないからこそ、足りない部分を人は無意識に脳内で補完しようとするんじゃないだろうか?
 
デフォルメ絵が本来の誰を指しているものなのか。人はその特徴を頼りに、足りない部分は自分で補完してその存在を見つける事が出来る。
 
でもこれが3DCGだったらどうなるだろう。
エドもアルもおそらくメタルスライムの変形のような立体になるだろうな。
リアルに描かれていると認識する脳に、果たしてそんなエドやアルを違和感無く読者は認識することが出来るんだろうか?
 
昔発売された鋼の同人ゲームに「青鳥の虚像」というのがある。その中にエドのデフォルメ絵も登場した。立ち絵のカラーはセル塗りではなくおそらくCG。綺麗に塗られた可愛らしい絵だ。
そして。デフォルメされたエドの形はちょっと指に似ていた。
肌色の円筒に丸まった頭頂。簡略化された目鼻と口があり、頭のてっぺんには目印のアンテナがあるのだけど・・・。
私は初見でそれがエドであると認識するタイミングが遅れたし、認識したあとも、実はちょっとアレを思わせるその造形に頭を抱えた(笑)。
 
まあそれはさておき。

「記号的身体」まで落とし込まれ簡略化された平面的な絵だからこそ、人は各自自己補完し、自己補完するからこそ。
その補完部分に自己が投影され、キャラクターをより近く、よりリアルな存在に認識するんじゃないかな。
だから。
手塚治虫だからとか、荒川弘が手塚の系譜をふまえているから、というのは実はあまり関係がないんじゃないかと私は思ってしまうのだけどなぁ。
   
つまり。
  
なんらかの「内面」を具えた「キャラクター」であるという理解が、「キャラ」図像の「かわいさ」を利用した表現を通じて行われているからこそ、無機質な鎧の頭部は、表情を示す「顔」として読み取られるのである。

とはすなわち、上に書いたような事によって起こる結果なのだと思うわけですわ。 
 
ただ。じゃあデフォルメが無ければマンガでは「人間」の「内面」は描けないのかというと、そういう事は無いと思うのだけどね。

どのような手法であれ、読者が好感を持てるキャラクターに仕上がっていれば、読者はその「記号的身体」のちょっとした表情や動きに心を沿わせその「内面」を必死に汲み取ろうとする。

って事なんじゃないかな。
  
 
 
「元の身体」を取り戻すことは、精神的・身体的な未成熟や成長の主題と結びつけられており、兄弟の師であり、一貫して「大人」として描かれるイズミがそれを目指さないのは当然である。しかし、「描かれた表層」着目すれば、また異なる事情が浮かんでくるだろう。

ここで、エドとアルは表層上のもの、腕や足身体を持っていかれ、イズミは表層には見えない内蔵を持っていかれた事の違いによるのではないか? という点を述べている。
 
氏は「盲目の錬金術師」を読んでいないのだね。
の一言に尽きる。
  
ジュドーもまた表層である目を持っていかれたけれど、大人として描かれている彼は取り戻そうとしていない。
このことに対しても氏は答えを出せるんだろうか?
 
それとも瞼を閉じていればもうそれは表層ではないと答えるのだろうか?
ならばエドだって、長袖に手袋、ボトムに靴を身につければ表層ではないという理屈を返せてしまう。
どうなのかな、聞いてみたい。
  
   
 
 
「同一の顔」とは認識されない図像同士によっても、同一の対象を指示できる

これを読んでパッと思い浮かんだのがまさに生アルと鎧アルの邂逅シーンだった。ちょうどめくった次にまさにそのページが掲載されているからかな。
んでぼんやり思ったのは。

なら、同じコマにアルが必ず一人しかいない状況で描いていたなら、非常に面白い効果がでていたかもしれないんだな、だった。
 
SFにタイムパラドックスという言葉がある。
タイムスリップものなどに出てくる「同じ時間軸上に同じ人間は存在しない」という理屈。
本当に鎧アルの前に生アルはいるのか、生アルの前に鎧アルはいるのか。
同じ空間にいるように見えて実はほんの少しズレた空間に二人はいたのかもしれない。
対話していると思っているのは本人達だけで、もしそれを端から見ることが出来たなら、あの真っ白い空間で、鎧アルも生アルもどこか空(くう)に向かって話しかけていたのかもしれない。
別々のフィルムをコマごとに切り取り、交互に貼り付けただけのような、そんな風にも受け取れる奇妙なコマ割りだったなら・・・。
想像しただけでちょっとゾクゾクした(笑)。
(ちなみにバリーは肉体に動物の魂が入っていたのだから別ものです)
  

実際にはそこまでの効果は狙っておらず、「両者の「顔」が同時に一コマに描かれることはない」に留めているのだそうだ。
ああ、なるほどね、と思いコミックスを見直しつつ物足りなさを感じてしまったのは、上の想像の方が自分好みだったから、かもしれないけれど(笑)。
アレ? p133の1コマ目もそこにカウントされるんだろうか?
いくつかコミックスをひっくりかえして、向き合った状態で二人の顔が見えているものを捜したのだけど。
1巻p96 4巻p14 6巻p61 25巻p133 :顔よりも絵を見せる
1巻p96 27巻p116 片側を主体に置き、:もう片側の表情は隠す
7巻p100 :1コマで時間の流れを作る
そもそも(片方が)手を伸ばしても届かない程度の距離で向き合った二人の顔を、確実に両方が見える形にしようとするなら「真横の顔」を描くしかない。ほぼ棒立ちで会話をさせるのって難しいような…。
本当に意図的なものだったのかな。五分五分な気がするんだけどなぁ。

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