« ユリイカ 2010年12月号 感想10 | トップページ | ミロスのCM »

使われなかった伏線の行方

ユリイカの感想を書いていて、ふと思いついたのだけど。
 
荒川先生って、基本的に伏線てものを効率的にどこに配置するかを考えていなかったんじゃないのか?

もちろん何も伏線を考えずストレートに物語を進めているとは言わない。
 
後で何かあった時に伏線として使えそうなネタを、あらかじめそこかしこに撒いているような気がする。
撒き餌や撒きびし、あるいは地雷のように?
その場になって使えそうだと判断したらそれらを拾ってきて使う。
ナンバー66然り、ハボック然り。ヨキ然り。
ダリウスが賢者の石を拾ったのにハインケルがアルに差し出した不自然さも、そう考えれば納得がいく。あれはあらかじめ組み立てていたのではないため、撒いた伏線と微妙にズレていたが捨てきれずに使ったのだと考えれば。
もしかしたら、エドが知らない過去をアルが覚えていた事だって、ノックスが火事で駆り出されていたのだって、アメストリスが丸い事だって、理由はすべて後付けだったかもしれない。
     
ゆうき氏との対談だったかな。その場にあるものを使って戦うと言っていたことからもこれは、あり得ない話ではないような気がする。
後から伏線として使用したものが多いことを、どこかのインタビューでも言っていた。
当時荒川先生のサイトの掲示板で、『鋼』のこの先の予想を書いたコメントに対し、それが当たっていたら別のものに変えてしまうからこの場で書いても意味ないですよ、というような返事をしていた。予定の路線から切り替えても大丈夫な程度には伏線を撒いていると考えれば、この返答にも納得がいく。
つまり必然的に、路線がズレれば撒いたはいいが拾われずに終わる伏線たちはそのまま放置され捨てられる。
もともとそれを前提に必要以上の伏線を撒いているのだから、荒川先生にはそれが当たり前なのだろう。
   
そして、それでも使える伏線が見当たらなかった場合は、その場で設定を作るからそこに唐突さが生まれた。
アルが母さんの中から見ていたシーン。太陽と月の雌雄について。あの地が惑星でありそれが市民レベルの知識である事実。
  
準備だけは用意周到に行い、出たとこ勝負で話を進める。
  
これと良く似たものを知っている気がする。
  
家があれば家宅捜査してとりあえず拾えるものは片っ端から拾っておく。
イベントが発生すればその中から使えそうなアイテムを引っ張り出して使う。
イベントの失敗や、ルートを間違えると、アイテムの中でも使えないまま終わるものが出てくる。
  
ロールプレイングゲームにそっくりだ。いやサウンドノベルもこのたぐいかな。
使わなかったアイテム、伏線にもちゃんと物語はあったはずなのにね。
ルートが変われば使われないまま手元に残り放置される。
ユリイカの「マンガはいかにして「人間」を錬成するのか?」に荒川先生が「コンボ」という言葉を使った事から「今日においてマンガは、ゲームを代表とした様々なメディアに囲まれた中で、描かれ、読まれている」と書かれていた。
なるほど納得するしかない。
もはや、マンガに小説的手法を望む方が的外れなんだろうか。
  
あーあ、残念だ。
 
ならば「ヨスガ」じゃないが(笑)、途中まで戻って別ルート、ってのが見みたいよ。
   

« ユリイカ 2010年12月号 感想10 | トップページ | ミロスのCM »

コメント

こんばんは。いつも楽しく拝見させていただいている者です~。
ですが、自分は漫画家志望なこともあり、こちらのご意見についてちょっと失礼をば…長文・雑文すみません;。

りほ様の「もはや」「残念だ」というお言葉の中に、どうしても「鋼」のみならず
漫画という文化全般に対する失望の気配を感じてしまったのですが、
でも漫画においても「読み手側の気持ちをどう誘導するか、惹きつけるか」といった
伏線に代表されるロジック的な考え方はちゃんと存在していると思いますよ。
ただ「絵(視覚)でも語れる」という特性のために
その他の部分がおろそかになってしまうこともままあるかと思いますが、
けれど逆に言えば、その大きすぎる特性までをも従えて一つの物語を破綻なく紡ぎ出すのは
分野の違いはあれど、やはり果てしない思索や思考を繰り返すものだと思うのです。


そしてここからは個人的な意見なのですが、
荒川先生は、その思考作業の工程を
「これぐらいでいい」とある程度限定して物語を描かれていたのではないでしょうか?

余分に伏線を仕込んでおき、後で使えそうだと判断したら用い、それ以外はそのまま。
ナンバー66しかり、マリアロスの嫌疑しかり、
確かに正直後付けだろう、と思ってしまう伏線や人物の使い方も、
それが先生の「漫画に対するスタンス」であり、良きにつけ悪しきにつけ、
先生独自の割り切り方、手法なのではないかと…。

先生は前期アニメの制作秘話で、「少年の成長を描きたいよね」という言葉に
「ですねぇ!(ウチの主人公はレベル100だから)」と
ある意味他人事のように答えていた所からも、あまり長期にわたる人の心の機微や
成長といったものには関心が薄い方なのかなと、
私は随分と割り切ってこの鋼を読んでいた方の人間なのですが…、
やはり素晴らしく懐の深い世界観の物語なので、もったいないという思いは残ります…

>れいさま
コメントありがとうございます。

>漫画という文化全般に対する失望の気配を感じてしまったのですが、

そうですね。失礼しました。
「ユリイカ」の藤田さんの特集の際に、ベテランの藤田さんが「伏線なんて~」という趣旨の発言をされたこと。
また、『鋼』の伏線の回収の甘さについて「ユリイカ」なり、個人の感想なりでこれといった発言があまり取りだたされていない事に、自分が知らないだけで、そういうマンガの描き方がひとつの方法論として確立され容認されているからなのかな? と思った事から出た言葉です。
 
そうではないと言われるのであれば、ロジック好きとしては嬉しい限りです。


>「これぐらいでいい」とある程度限定して物語を描かれていたのではないでしょうか?

>それが先生の「漫画に対するスタンス」であり、良きにつけ悪しきにつけ、
>先生独自の割り切り方、手法なのではないかと…。
 
それでも初期の頃は違っていたと思いたいです。
あの頃は、著者が紙面に飛び出しそうなくらい(笑)、前のめりになって描かれていたように感じていました。
主人公と一緒になって、作者自身の暑苦しさが感じられていたように思います。
 
キャラクターに感情移入すればいいんだろうけれど、自分がキツイとインタビューで答えられてましたよね。
あれは、最初の頃は実際に感情移入して描いていたものが、だんだんきつくなって、ある段階でふっと「これぐらいでいい」だろう、と引いてしまったのかもしれない。
れいさんのコメントを読んでそんな事を思いました。
 
細かい事なんですが。
初期のコミックスのおまけマンガに、自分の血には墨汁が流れていると言われていたのに、「百姓貴族」という媒体がある関係上なのかもしれませんが、最近は自分の血には牛乳が流れていると言われている。
農家にくらべればマンガは楽 という趣旨の発言をされる。
ガンガンのアンケートを見て「まだ(『鋼』を)描かせる気か」という発言。
 
そういったところで、昔ほどマンガに対する情熱がなくなってしまっているのかな、と思ってしまう事があります。
小手先とは言いませんが、あまり好ましくない方向で楽に描ける方法を身に付けてしまったのかな、と。
 
 
>やはり素晴らしく懐の深い世界観の物語なので、もったいないという思いは残ります…

そうですよね。本当に、もったいないという言葉しか出て来ないのが残念でなりません。
  

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 使われなかった伏線の行方:

« ユリイカ 2010年12月号 感想10 | トップページ | ミロスのCM »