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ユリイカ 2010年12月号 感想16

「錬金術」のエコノミー  星野太

実は震災前にはほぼ書き上がってました。
ただ内容的に、このタイミングで出すのはまずくないか? と考え保留にしてました。
でも、大丈夫かもしれない。今夜の月を見てそう思った次第です(笑)。
 
地震のバタバタでユリイカ本誌が見つからず、最終的な引用などの確認が取れていません。
誤りなどありましたらご了承ください。

「等価交換」という言葉を用うるさいに忘れてはならないのは、この原理を成立せしめているのがAとBを「等価」とみなす双方のコンセンサスであるということ、そしてそれゆえ、その「交換」はどうしても一回限りの恣意的な出来事であることを免れないという事実でもある
 
例として炭坑の町やイシュヴァールにおけるブラッドレイの決断などがあげられている。
これらは「双方のコンセンサス」によるものだ。片方が等価と思っていただけでは成立しない。
自分も何度か、感想でこの手の話題を出したことがある。
  
「一回限りの恣意的な出来事」。こちらが新鮮だった。
私の中では「立場」や「状況」に左右される、という認識だったのだけれど。
それらをすべてひっくるめれば「一回限り」という言葉の方が遙かに適切だ。
    
また、物々交換の社会だった物語前半に対し、中盤以降金銭のやり取りが頻繁になるという見方も面白い。
初期の物々交換は荒川先生の北海道での生活観が現れてしまっただけなのでは? と思わなくもないけれど(笑)。

前半、一泊二食付きの宿の代価は鉱山の権利書で支払われ、パニーニャの機械鎧の代価は誠意で支払われた。
けれど。
宿代は必ず鉱山の権利書で支払わなければいけないわけではない、本来の宿代は20万センズだ。
機械鎧代も本来はとんでもない額であり、誠意で返金する人ばかりだったら機械鎧技師は破産する。
 
著者は「倫理」という言葉を使っているが、どちらかというと「厚意」の方が私はすっきりする。
人の厚意により市場価格とは無縁の閉鎖的な社会における物々交換。
これが初期の鋼における等価交換であり金銭感覚だった。
 
しかし物語が進むにつれ、変わっていったと氏は述べる。
 
北方に舞台は移り、厚意だけではない人間もいる開けた社会を表現するにあたり、金銭が登場してきたのは必然なのかもしれない。
 
貨幣とはつまり、倫理・厚意といった心が決める判断基準を取り払い、物事に相対価値を決めるということだ。
売り手にどんな思い入れがあっても相場価格は変動するものではなく、購買者が店舗を探してやっと見つけたものであってもその値段が跳ね上がる事はない。
心による付加価値は認められない。
  
知らない人間同士だからこそ、互いのコンセンサスを必要としないし、一回限りのものにもならない。花代は翌日買っても変わらず3万5千センズだっただろうし。
厚意からくれたと思ったコーヒー代200センズをエドは不本意ながら支払う。そこにエドのコンセンサスは加味されない。
 
 
さて、では等価交換といわれる錬金術そのものはどうだっただろう。
果たして、物々交換の原理だったのか貨幣の原理だったのか。
 
 
錬金術は科学だ、エドは言う。
ならば、同じ状況下で誰がやっても常に同じ結果が出なければならない。
 
機械鎧は常に手刀となったし、土があれば地面を盛り上げて壁を作ることはいつだって可能だった。
「壊れたラジオ」はただ「同等のラジオ」というだけで「壊れていないラジオ」と等価であり、「壊れた鎧」も質量不足を薄く伸ばす事で補えば「壊れていない鎧」と等価交換が可能だった。
一回限りの恣意的なものでもなければ、互いのコンセンサスもない。
何せモノ同士の等価交換だ。間に人間が介入しないのだから心もへったくれもない。互いのコンセンサスなどそもそもが存在しない。
そこに必要なのは「質量保存の法則」と「同属性である」その2点だけだ。
 
ボロ炭だろうがダイヤモンドだろうが元が炭素であるならば付加価値は認められず、同等の価値と見なされる。
著者はこれを「そもそも錬金術は等価交換ではない」と論じるが。
それは「人間」の視線による価値基準で見るから高額なダイヤモンドに価値を見るだけではないだろうか?
だって、炭素を硬化しようがボロ炭に錬成しようが、グリードはグリードだった。
「いやそれは違う。グリードの価値が変わる」などという人はいないでしょう?(笑)
それは文字通り外面の付加価値ではなく、「グリード」という本質の価値基準で判断しているからだ。
 
さて結論。
となればどうも錬金術は、物々交換よりも貨幣の原理に近いのではないだろうか。
 
さらに続ける。 
  
だから。
著者が真理のみ双方のコンセンサスを必要としないと受け取ったのは、どこかで真理を「人」として見ているからでは無いだろうか?
人体錬成を「人が人と物々交換している様」、そう理解しているからこそそのように見えるのではないだろうか?
  
真理は、擬人化されているがその本質は「人」ではない。
その名の通り真理。物事の「ことわり」だ。
物々交換の原理となる「人の心」に判断基準を求める方がそもそも無理というものなのだろう。
前に他の記事にも書いたが、「真理」とは「荒ぶる神=大自然」でもあると思っている。
 
世界というマクロな目から「ことわり」がどういったものなのか、相対的に見はるかすことが出来たなら、もしかしたら世界にとって等価だと判断されたものが、ただきちんとエドたちに返されているだけなのかもしれない。
 
ただそれが、ミクロなる人間の身では理解出来ないだけなのかもしれない。
  
 

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