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人でなしの論理

とりえず考察記事は、今日の処はこの2つのみで。


考察にあげる記事をピックアップする為にひとつひとつ記事を読みなおしているんですが。
思わぬタイミングで、その後の事を言い当てているような文章が出てきて我ながらびっくりしたのがこれ。


ガンガン2008年08月号 鋼の錬金術師第85話「空の箱」ネタバレ感想(2008/07/21)にこんな事書いてました。
 
■自分のせいで身体無くしたオレ達が使っていい訳ないだろ!
正論だ。カッコいいし、言ってることも分かる。
でも。そこに感情論は入らないんだろうか?
 
アルがあんな状態でいると、もしこの時に知っていたなら。
それでも、エドは同じ事が言えたんだろうか?
 
賢者の石を使わなければ、魂まで真理に持って行かれるとしたら?
今、賢者の石を使わなければもう、アルは助からないのだとしたら?
 
グラトニーの腹から戻る為に、一度はエンヴィーの賢者の石を自分の為に使っておきながら、アルの為には使っていい訳が無いと、それでもエドは言うんだろうか?
 
エドのその一言が、アルを殺す事になるとしても。
助かる術が目の前にある。でも使うわけにはいかないから死ねと。

本当に、エドはそう言えるんだろうか?
 
 
ここまで。
 
なんつうか…。本当にまさに、だったな。
こんなことを書いたことすら忘れてた。
  
2年前に心配していた事が、結局杞憂に終わらずホントにそれをやっちまったんだ、エドは。
  
自分は自分の為に使ったのに、アルの為には使わなかった。
ならば自分の為であっても使わない方法をとるべきだったし、そうでないならそれ相応の手順を踏むべきだった。
  
昔自分が使った事を自覚している事を示すなり、それを踏まえた上での葛藤を示すなり、リンやホーエンハイムに賢者の石は使わないと言わなきゃいけないのに言い切れなかったり。
自分がアルにひどい事を言っているという自覚が欲しかった。
でないと納得出来ない。

インタビューで「思っていた以上に兄弟ががっぷり四つに」「うちの兄弟はあんなもんだ」的な事を笑って答えられていたけれど、もしこの点を差しているならそれは見当違いというしかない。
  
もちろん相手を思い合っている兄弟だと思うから、という気持ちがないわけじゃない。
 
けれど、実録マンガではないのだから。自分の兄弟が「そう」だから「そう」描かなければいけないわけでないだろう? そもそもはじめの頃、作者がそういう兄弟を演出していたからこそ最終話とのズレに違和感を感じての読者の声だったのだろうに、それが何故理解出来ないのだろう?
  
でも、それ以前に。「人として」エドのあの行動ってどうなんだ?
今生きている人間を見殺しにしてまで、見知らぬ死者の尊厳は守られなければいけないものなんだろうか。
  
この点において言えば、本当にエドが大嫌いだし許せないしやりきれない。
  
グラトニーの腹から戻ってくる時や、対セリム・キンブリー戦では使えても、自分達が元の身体に戻る為には使わない。

それは逆説的に言えば、自分達が元の身体に戻る為でなければ賢者の石を使うことも厭わないと言っているという事だ。
「賢者の石は他人の魂だから使えない」のならば、それは何があっても使ってはいけないと考えるものではないのだろうか?
自分達にとって都合よく、使う使わないを決めてはいないだろうか?

それって結局、最終回のマルコーの行動とかわらない。
マルコーが「自分の賢者の石であるかのように自分の為の交換条件に賢者の石を使った」事に、当時ブロガー仲間から一際ブーイングがあがった(だからこそFAの、それを全て自覚し背負った上でなお動くマルコーにあたしは喝采をあげたんだ。原作でもこのほんのちょっとした気遣いをしてくれていたらと、どれだけ歯噛みしたことか)。
  
ああ、なら「自分達にとって都合よく」じゃないな。
それがキャラクター一人の話でないのなら、それはもう「作者にとって都合よく」使う使わないを決めてしまった、と言うしかない。

そしてそれが、エドの意志を大きくブレさせる要因になった。大切な事なので二度言おうか(笑)。
エドの意志を大きくブレさせる要因になったんだ。
「鋼の良さは最後までブレがなかった事」とは言わせない。
     
インタビューで、何が起こるかは考えていても、どう決着を付けるかはその場で考える、というような事を答えていた。

想像でしかないけれど。
エドがグラトニーの腹から戻るのも、アルが両足のない状態でセリムと戦わなければならなかったのも。荒川先生は特に初めから決着方法を定めず、そこにあるもので何とかしのがなければならないとなった時に、人の魂=賢者の石が使えると判断し、エドやアルに使わせたんじゃないだろうか。
 
だからこそ、選択肢としてそれしかないという状況下の切羽詰まった感があり、読者は(少なくとも私は)そこで賢者の石を使ったことに違和感を感じなかった。
   
翻って最終話。   
エドの決断に私は嫌悪した。
 
「自分が助かる為になら使えた癖に」。
 
別に賢者の石を使って人体錬成をするわけじゃない。
アルを真理の扉の前から連れ戻すだけだ。
元の身体のアルを連れ戻す事になるのは単なる結果論だ。なぜいけない?
  
それは、自分がグラトニーの腹から出る為に使ったのと、どれほど違うというんだ?

人でなし。人でなし! 人でなしっ!!

少しの迷いもなく、なぜそれが実行出来る? いつからそんなお利口になった?
エドだったら。あの頃の、グラトニーの腹の中で人の魂を使う事をひとつの覚悟として決めたあの頃のエドだったなら、きっと違う答えを出したはずだ。
  
思い出すだに腹が立つ。
エドに簡単に結論を出させたことに。
賢者の石を使わない事が、ギリギリ自分を追い詰めた上での決断ではなかったことに。
  
当たり前だ。作者はもう決めてしまっていたんだ。
これは作者本人が切羽詰まって出した結論じゃない。
  
方法はすでに用意してある。全てお膳立て済みだ。
焦る必要なんて何も無い。
アルはとりあえず放っておいていいや。
エドの見せ場をまず作らなきゃ。
エドを泣かせて「親父」っていわせて。
そっちの方がずっと今は重要だから。
  
そんな作者の声が聞こえてきそうなゆるい展開。
息子の生死がかかっている時に「親父」と呼ばれて喜ぶ親がどこにいる?
  
いつからだろう。物語るより自分が描きたいエピソードが優先されるようになったのは。
そしてその為であれば、キャラクター性すら放棄するようになったのは。
キャラクターが勝手に動くなんて言っているうちは良かったが、結局それでは収拾がつかなくなり、作者たる神の手で全てを囲いこみ、キャラクターの思惑を捻じ曲げて無理矢理収束させるような体で終わらせた。
  
しかしその反面、キャラクターが引き受ける感情には、自分が辛いからと悲しむ器を小さく持ち、物語を自分から遠い処に置こうとする矛盾。
  
「荒川弘」は、いつまで「そこ」にいるつもりなんだろう?

もっとキャラクターに寄り添って、彼らと一緒に泣いて笑って、一緒に苦しんでそこから立ち上がればいい。
キャラクターと一緒に追いつめられて追いつめられて活路を開く。
多少強引だろうが、あのときにはその方法しか思いつかなかった。だからこれでいいんだ。そう強く言い切ってしまえる作者自身の決断があるからこそ、そこに説得力は生まれる。
だって一度は、賢者の石を拾ったのがダリウスでありながらハインケルが「何故か」持っていたという、アクロバティックな伏線で読者をねじ伏せることだってしてのけた人だったのに。
ほかにも物語には矛盾がある。腐るほどある。それでもなお、面白いと言わせる力強さが昔はあった。

あらかじめ結末を決めてしまったから自分の心に余裕が出た。その余裕がキャラクターを殺し、それが台詞を通し、呼吸を通して、あり得べからざる空気を生み出した。そして。
それはそのまま紙面に出た。

今「荒川弘」と「荒川弘のマンガ」に足りないのは「飢え渇えるあがき」ではないだろうか?
「ユリイカ」の対談の「まだ描かせる気か?」はなんとも贅沢な発言だった。
もしデビュー前の「荒川弘」が読んだら、その横っつらを引っぱたくくらいはしたんじゃないだろうか?(笑)
  
おためごかしの倫理も道徳も驕りも虚栄心もプライドも、身についた小手先だけの技術も全て全部一度薙払って、「荒川弘」はもう一度初心に帰り、本能も自分のダメな処も全てさらけ出して、ただ「マンガが好きなんだ」と、「自分に描く場所をくれ」と、その心だけで描くべきなんだと、そう思う。
  
そうしないと。もう昔みたいに彼女の描く物語は心の奥まで届かない。
きりきりと本当に心臓が痛くなるそんな物語を、話がどう転がるのか見えずドキドキしながら読んでいたあの頃の物語を、私はもう一度読みたいよ。

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