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鋼の錬金術師 嘆きの丘の聖なる星 ネタバレ感想14

ミロスを観ていて、原作のリザのあの台詞が浮かんだ。
「新しく生まれてくる世代が幸福を享受できるように その代価として我々は屍を背負い血の河を渡るのです」

   
自分の教え子達が不慮の事故で死んだりしない、そんな未来を与えたいと願ったジュリア。
自分の命よりもミロスの未来の為に鮮血の星を選んだバタネン。
そして。アメストリスの正義が、多くの人を殺した事を指摘するハーシェル。

ロイやリザが行っている行為と、ジュリアやバタネン、ハーシェルの言葉とに、どのくらいの違いがあるのか。
「鮮血の星」に対するエドの一方的な強者の論理をくつがえそうとする存在が味方側にも敵側にも現れる。
そうやって。
エドはそうやってどんどん悩んで悩んで成長して、あの最終回を迎えるべきだったんだ。
ミロスを観て心の底からそう思った。


「生きている人の命を奪って幸せになれるのか」というのなら。殺される予定の人間ならどうだ?
自分が今奪わなくとも明日には惨首されるような命なら?
ただ死ぬのではなく、世の為人の為になるのなら、それは誰にとっても有効利用になるんじゃないのか?
それを描いたのは水島版。

アルの魂の定着を盾に取られ、その要求を飲むつもりで錬成陣を描き、それでも最後の最後で錬成を拒んだ。
たとえ悪人でも死刑囚であっても、今そこで生きて呼吸をし死を恐れる彼らに手を下す事は出来ない。
それが水島版エドの出した答えだった。

それは、まだ国家錬金術師になったばかりの頃、バリーに殺されそうになり足がすくみ恐怖に震え半狂乱になって刃を振り回しアルさえ傷付けた。
その怖さを知っているエドだからこそ、身に付いたものだったのだと今になって思う。
そういえば水島エドはこのシーンで「軍の狗だろうが悪魔と罵られようが構わない。だけどな、本当のオレ達は悪魔でもましてや神でも無い。人間なんだよ。ニーナ1人救うことの出来なかった、ちっぽけな人間だ」を言ったんだっけ。
他人を助けるどころか、自分の命さえ守れない。
水島版のエドはそこから始まってる。

思い返してみれば、水島版エドは最初の頃いつも弱者の立場にいた。
リオールでは自分たちの安寧を奪う者だと石を投げられ、ユースウェルでは国家錬金術師を理由に宿を追い出され、ゼノタイムではエルリック兄弟を騙る偽物に売る薬はないと追い返され、右腕が壊れていた処を殴られその隙に左足を奪われた事もあったっけ。
原作のエドには殺されそうになる側の経験が少ない。弱い側の立場の経験が薄い。
  
  
また、FAのエドは、原作以上に「人間の定義が広い」という台詞を忠実に守ろうとした。
一つ目の人形に、賢者の石という魂が埋め込まれているだけでエドはためらい、殺せずに苦悩していた。
簡単に焼き殺してみせたロイに「あれは敵だ」と諭される。
あの時の、恐ろしい者でも見るような強張ったエドの表情がすごく良かった。


生きている人間を犠牲にするのはダメ。
生きる価値がないと公的に認められた人、もう死ぬだけの人でもダメ。
なら賢者の石を埋め込まれた人ではない化物なら?
賢者の石という単体が目の前にあったのなら?
死んだ人間を尊重する余り、今生きている人間が犠牲になるのはOKなの?

そういう自己矛盾に本気で向き合って、懇々と懇々と悩み続けて、そうやってエドには成長して欲しかったなぁ。

エドはいつだって強いんだ。そしてその強さを他人にも要求する。他人の腕をぐいぐい引っ張る。
「あきらめるな、頑張れ、負けるな」そう言って立ち上がらせる。
やっぱりロイに似てるんだろう。放っておけない、見捨てられないんだ。
それが頼もしく嬉しく思う事もある。

でも本当にどうしようもなく辛くて立ち上がれない時。
どうしても気力だけでは立ち上がれない時、エドの言葉はキツイ。
同じ目線で物事を見ようとしてくれない。
本当は「そうだよなぁ、辛いよな、少し休もう」って一緒に座って欲しい。
そうしてくれれば、少し待ってくれれば、無理に引っ張ってくれなくても、自分の足でしっかり立ち上がってみせるのに。それを待ってくれない。

最終話までそれは変わらなかったな。アルが休憩している横でエドは立っている。
立たれてたら、ゆっくり休めないじゃない?
待って貰ってるんだから立たなきゃ、そう思わされてしまう。

結局荒川エドは、己に対する強靱な心は持てたかもしれないけれど、他人に対する柔らかな心を持てないまま成長してしまった、のかな。
  
  
最近思うのだけど。

荒川鋼は、キャラクターもストーリーもやっぱり途中までは面白いと今でも思うし、魅力的な設定だったと思ってる。
ただそれを有効利用し使いきる技量が荒川さんには無かった。

水島鋼は、原作には無い人の心の細やかなひだまで描写する事に長けていた。だから視聴者をキャラクターに感情移入させるのが上手かった。
けれどそちらを優先するあまり、原作とオリジナルをミックスした際の齟齬や矛盾がそこかしこに出していた。
  
FAは、原作では何でもなかった台詞や、キャラクターを、裏打ちされた重厚なものに仕立てあげるのが上手かった。原作におけるキャラクターの感情の移り変わりの不自然さを、原作から逸脱しないギリギリのラインで見事に調整してみせた。
けれど膨大なエピソードを消化しきる事を第一に求められ、水島鋼のような間の演技に時間を割く事が許されなかった。

ミロスは、原作者が苦手とした伏線張りとその回収の上手さに抜きんでている。
けれど、物語を動かす事に時間を割かれ、既存キャラクターへの心配りを欠いている。

どれにも欠点があり、どれにも長所がある。
でも、どのアニメもスタンスは同じだ。

そのままでも面白いと思うよ? でも。
こうすれば「鋼の錬金術師」はもっと面白くなると思わないかい? 

そんな思いに溢れてる。
 
原作の足りない処、上手く行っていない処、下手を打っているところを、それぞれがそれぞれの得意分野に落としこみ、最高の形で補完してくれた。
 
どの監督も名の通った有名な監督ではない。
水島監督は監督5作目、入江監督は2作目。村田監督に至っては初監督作品だ。
それでも、今まで原画や絵コンテ、演出、作画監督など現場でいくつもの作品に携わりそれで食ってきた人達だ。
読切りの数も少ないまま初連載に入った荒川さんに比べたら、新卒と百戦錬磨の叩き上げくらい、鍛えられ方が違っただろう。

どのアニメも一筋縄ではいかない。一癖も二癖もある、それぞれの、その監督らしい魅力ある個性的な作品に仕上がっている。

そんなアニメ達がそれぞれのやり方で、まだ未熟な「鋼の錬金術師」というマンガを支えてくれた。
あたしの目にはそんな風に見える。

朴さんが「ANIME KINEJUN」のインタビューでエドの内面は「柔らかい」と答えていたのを読み、それって水島エドとかFAエドでしょ? 荒川鋼には無いじゃん。朴さん混同しちゃってないか? と思ったのだけど。
そういえば荒川さん本人ですら、水島鋼と混同してマンガに「真理の門」と書いてしまったなんてエピソードを昔紹介してたっけ。

もう、鋼はそれでいいような気がしてきた。

原作もアニメも関係ない。どちらが主でどちらが副なのかもどうでもいい。
どの作品にも欠点があって、長所がある。
原作による魅力的な設定がある。
水島版がキャラクターの心理を細やかに描きあげ、FAが重厚さを増し、ミロスがストーリーの構成力を発揮する。
それらすべてをまとめて互いが互いを補いあいその結果を「鋼の錬金術師」と呼ぶのなら。
「鋼の錬金術師」は最強のコンテンツなのかもしれない。 

あたしはそれでいい。

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